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  <title>Qualities｜九州のいいヒト、いいコト、いいシゴト</title>
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  <description>Qualitiesは日本を元気にする九州のいいヒト、いいコト、いいシゴトを探し出し、全国にお届けするメディアです。</description>
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  Fri, 15 May 2026 00:07:03 +0900  </lastBuildDate>
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    <title><![CDATA[観光地のストリートから新しいスタンダードを掲げる、長崎「ALI」田中悠大さんの挑戦]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/ali-fujimoto</link>
    <pubDate>Tue, 03 Feb 2026 21:00:46 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[常識にとらわれず“これってアリだよね”と軽やかに発信長崎の人って優しくて、おっとりしてるよねーー。そんなよく聞く穏やかな気質は、一方で新しい情報を自ら取り入れ変化することへの苦手意識を生み出し、現状を好む“腰の重さ”に繋がっているのかもしれない。進学や就職を機に多くの若者が県外へ流出する中、「長崎には何もないから、福岡や東京に出る」という人の話は数え切れないくらい聞いてきた。しかし本当に、長崎には何もないのだろうか?そうではなく、もしかするとあることを知らないだけなのかもしれない。それを教えてくれる場所や人を考えたとき、すぐに頭に浮かんだのが、大浦町のストリートから新しい風を吹かせている「ALI」の田中悠大さん。仕事も遊びも本気で面白がりながら、長崎ならではの楽しみ方を表現する、まさに“カッコいい大人”だ。東京のストリートで培った遊び心を武器に、食や音楽、ファッションといったカルチャーの垣根を軽やかに越える田中さん。生まれ育った長崎ならではの個性や魅力を都会的なセンスで見つめ直し、「これってアリだよね」と新しいスタンダードを提示している。長崎には何もない。そんなイメージに対する田中さんの静かな挑戦。観光都市のど真ん中の路上から始まったその歩みを追った。[プロフィール name="田中悠大" message="たなか・ゆうだい。1986年、長崎県長崎市生まれ。高校卒業後に上京しカステラ工場で勤務しながら、夜は居酒屋でアルバイト。飲食業の面白さにのめり込み転職した後、30歳で渋谷にカフェバー「TORICO」を開業。コロナ禍での休業を経て2021年にUターンし、長崎市中心部の大型開発に関連した飲食事業を経験。2023年10月に長崎市大浦町で「ALI」をオープン。様々なイベント企画にも力を注ぐ。"] 長崎らしいものを、長崎らしくないアプローチで表現[caption id="attachment_12595" align="alignnone" width="960"] (▲ 路面電車「大浦天主堂」駅から徒歩2分という立地。休日を中心に国内外から訪れた観光客が通りを歩いている〉[/caption]グラバー園、大浦天主堂、そして孔子廟。まさに長崎を代表する定番観光スポットが集まる長崎市大浦町の居留地エリアは、日本と中国、そして西洋文化が一体となった“和華蘭文化”を存分に感じられる場所だ。そんな多くの観光客で賑わう大通りから少し脇道に入った交差点に建つ、コンクリートとガラス窓が特徴的な店舗。「ALI」がオープンしてまだ2年足らずだが、新しいワクワク感を求める人のセンサーには確かに引っかかり、なんだか面白いスポットだと知られつつある。入り口に掲げられた大きな暖簾をくぐった先には、広々とした客席。テーブル・カウンターともにゆとりがあり、少人数から団体、ベビーカーを押すお父さんお母さんや車椅子の人まで、どんな客層も快適に過ごせる空間だ。ランチやカフェ、ディナー、バーと利用シーンも自由自在。多彩なメニューを気ままに楽しむことができる。看板メニューの一つであるナポリピッツァは、イタリア産のきめ細かな小麦粉を使用したモチモチとした生地が特徴。トッピングは長崎産の素材が主役で、旬に合わせた期間限定メニューが頻繁に入れ替わり登場する。 そしてもう一つ、長崎らしいトルコライスも外せない人気メニュー。ピラフ・スパゲティ・とんかつを一度に楽しめる、まさに大人のためのお子様ランチのようなB級グルメ。その由来やルーツは諸説あるが、いずれも洋食店から始まったとされる。「ALI」ではそんなかしこまったメニューを再解釈。スパイシーな味付けと自家製ピクルスをアクセントに、サクッと気軽に堪能できる、ストリート感あふれる一皿に仕上げた。飲食店というカテゴリーに収まらない、多彩なポップアップやイベントも「ALI」の持ち味。東京のアパレルブランドの受注販売会に、アーティストの個展、音楽イベント、メダカや盆栽の販売、街コンなど、ユニークな企画ばかり。それも長崎・九州という枠に収まらず、様々なエリアのヒト・モノ・コトとコラボレーションしている。「長崎では珍しくてもスタンダードなもの、そして当たり前にある長崎らしいものを、新しい形で提供したくて。こういうのもあるんだよ、アリかナシかでいえばアリだよねって。いろんな人にその感覚を楽しんでほしいんです」そう笑顔で語るオーナーの田中さん。自ら厨房やホールに立ちながら、イベントやポップアップの企画・運営も並行する慌ただしい毎日だが、合間にスタッフと言葉を交わす表情はリラックスしている。「一番幸せだなって思うのは、みんなで力を合わせて一日の営業が終わって『今日も頑張ったな、みんなおつかれ!』って感じの時ですかね。僕自身は何者でもないので、楽しさも忙しさも分かち合って、みんなで成長していきたいです」多彩なカルチャーへの造詣が深く、常に周りに気を配りながらも遊び心を忘れず、日々を楽しむ。まさに頼りになる街の先輩といった存在の田中さんだが「まだまだ地元に伝えたいことが伝わってない。もっと頑張らないと」と満足した様子はない。観光客が外を行き交う窓際の席でじっくりお話を伺うと、もどかしさの根っこには、観光都市・長崎という一見恵まれた立地ならではの悩みも関係していた。人と人が繋がる、飲食店という場所今でこそやりたいこと、やるべきことに地に足をつけて向き合う田中さんだが、長崎市で過ごした少年期は「やりたいことや夢なんて、全くなかった」と振り返る。親に言われて小学生から始めた空手は、持ち前の運動神経を発揮して順調に上達。苦手な勉強よりも得意なスポーツの道に進もうと、推薦で県内の強豪高校に進学した。周囲の期待通り全国大会やインターハイにも出場。そして高校3年生の最後に迎えたインターハイが、たまたま地元の長崎での開催だった。 「もう県代表として出場するのは当たり前みたいな高校で。地元での全国優勝を目指してたんですけど、サクッ2回戦で負けちゃったんです。結局優勝したのは、これまで勝ったり負けたりしてる互角のチームだったんですけど。向こうは3年間優勝を目指して努力してきて、一方で自分は、最後までどこかでやらされてる気持ちがあったんですよね。どうせ同じ時間を過ごすなら、適当に過ごすよりも頑張った方がいいって、高校3年の夏にやっと気付きました」とはいえ、自分のやりたいことや目標がすぐには見つからなかった。「とりあえず長崎から出たい」という一心で、長崎と福岡、東京に工場を持つ大手カステラメーカーに就職。希望通り東京の工場での勤務が始まった。当時暮らしていた社員寮の家賃は月5,000円。場所は中目黒という好立地だったが、それを全く活かせずにいた。「社内は同じように長崎から上京した人ばかりで、場所は中目黒だけどずっと長崎弁でしたよ(笑)。長崎の人と仕事して、終わったら長崎の人と飲みに行ったり遊びに行ったりしてました」[caption id="attachment_12601" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「ALI」のディナータイムはアルコールと一品メニューも用意。長崎産のシラスを使ったオムレツはワインとも相性抜群〉[/caption]新しい出会いも繋がりも生まれない生活に飽き飽きしていた状況を変えようと、終業後にこっそりと渋谷の居酒屋でアルバイトを始めた。体力は有り余っていたし、東京で何かにチャレンジしたいという漠然とした気持ちが動機だったが、これが進む道を大きく変えるきっかけとなる。「居酒屋で本当にいい人たちに出会えました。店長や社員の方、お客さんにもたくさん可愛がってもらえて、普段は東京の大学に通う同年代の友だちとも仲良くなって。東京のいろんな場所に連れて行ってもらえて、飲んだり食べたりする大人の遊び方や楽しみ方を一から教わったような感じです」新しい出会いや繋がりによる刺激的な面白さ、それらを生み出す場としての飲食店に大きな魅力を感じたことで、ますますアルバイトにのめり込む。「親から『せっかく就職したんだから3年間は勤めなさい』と言われていて。その言葉通り、アルバイトをしながら3年間働いた後、すぐに退職して居酒屋一本に絞りました。当時は週6日、7日ペースで働いてましたけど、とにかく楽しくて。仕事が遊び、遊びが仕事みたいな感覚だったかもしれませんね」その後、都内で複数の飲食店を営む企業に就職すると、様々な規模・業態の店舗の立ち上げや運営に携わる。人と人を繋ぐ場としての飲食店の魅力に益々のめり込んだ田中さんは、自然と自らのお店を持ちたいと考えるように。30歳の節目の年、渋谷にカフェバー「TORICO」を開業。長崎のB級グルメであるトルコライスを看板メニューに掲げた。「東京のど真ん中で、地元のソウルフードで勝負するって、なんか面白いんじゃないかと思って」と振り返る田中さん。知り合い伝いで評判が伝わり、小さなお店は徐々に賑わいを増していく。東京でトルコライスが食べられる珍しさもあり、長崎出身者も集まるようになった。順調に見えた店舗運営だったが、程なく大きな変化が訪れる。新型コロナウイルスの感染拡大だ。「お店を休業することになったんですけど、もともと一人で営業していたこともあって。正直、助成金や補助金でむしろ潤うような状況だったんです。ラッキーではあったんですけど、同時にこのままでいいのかなって。いつまでこの状況が続くのか分からないし、何より自分の力じゃないところで与えられるお金が気持ち悪くて。それに実際店舗を立ち上げてみて、一人でお店を運営する限界も感じていたんです。売り上げのてっぺんが見えても、未来が明るくないなって」田中さんが迷いを抱いていた頃、生まれ育った長崎市では大きな変化が起きていた。2022年の西九州新幹線開業に向けて長崎駅周辺で大規模な再開発が進み、周辺にも様々な施設が建てられていた。そんな時期にたまたま見つけたのが、長崎に拠点を置く大手企業の飲食事業部の募集だ。「もともと帰る気はなかったんですけど、これならやりがいを感じながら自分の経験を活かせるんじゃないかってワクワクして」と田中さん。思い切って応募すると順調に選考を通過し、2021年に長崎へUターンすることになった。その飲食事業部での勤務は約2年で区切りをつけることになるが、大きな組織の一員として働いた経験が、田中さんの進みたい方向、そして長崎に対する思いや眼差しを改めて見直すことに繋がる。「やっぱり大手企業ですから、短期的な利益を上げることが優先されて。仕込みの時間や人件費をいかに減らして効率化するのか、そういった方向で何事も考えざるを得なかった。組織の論理としては、いかに収益を上げるかに注力するのは正しいことだと思います。でも自分は収益よりもとにかく、目の前のお客さんに喜んでほしい、楽しんでほしい、もっとおいしいものを提供したいという思いが先にくるんです。やっぱり街の路面店、ストリートで育ってきてるから、数字よりも目の前の人の“反応”を見てしまう」もっと気さくで近い距離で、大らかにみんなを受け入れるお店が、この街にもあった方がいい。「ALI」を始めたのも、どこか偶然なようで必然のような縁があったのかもしれない。たまたま大浦町を散歩していた田中さんは「めちゃくちゃいい場所だった」という空き物件を見つける。最初は独立する気も会社を辞める気もなかったそうだが、自分のやりたいことに正直な田中さん。自分自身の気持ちは誤魔化せない。何度か内見もした上で、思い切って退職を決意。人生二度目の開業に踏み切る。かつての自分が長崎で出会いたかった場所を新しい長崎らしさを、新しいアプローチで。多彩なカルチャーから「これってアリだよね」というワクワク感が広がる「ALI」は、県外・海外からの観光客にはコンセプトが伝わる確かな手応えを感じている。一方、長崎の地元客にはまだまだ浸透していないと田中さんは話す。[caption id="attachment_12604" align="alignnone" width="960"] 〈▲ オーダーは客席に置かれたQRコードから。こうした注文方法も長崎の個人店では珍しい〉[/caption]「やってることは自分からしたら普通だし、カジュアルにふらっと立ち寄れるお店なんですけど、どうも『オシャレすぎて入りにくい』と尻込みする人もいて。長崎の人には、どこか腰が重い、視野が狭いような傾向を感じてしまいます」もちろん、訪れた人を満足させるだけのメニューやお店づくり、質の高いおもてなしは大前提。その上で、思うように地元にメッセージが届かないことにもどかしさを感じている。長崎ならではの土地柄、気質と言ってしまえばそれまでだが、課題は根深い。話を聞きながらふと思いついた要因の一つが、知名度のある観光地ならではの受け身の姿勢。特に長崎市内中心部は待っていても観光客や修学旅行生が大勢訪れるような場所で、商売をする上では無理にリスクを冒さずとも、一定の成果が見込まれる。そんな恵まれた環境自体を批判するつもりはないが、「これでいいよね」と進化も変化もしなければ、腰が重くなっていくのは必然だ。思えば長崎は、常に強烈で大きな「記号」とともに語られてきた街だ。平和、教会、世界遺産、造船。それらは外に向けた発信としては効果的だが、そこで実際に暮らす人、特に若者の日常とは大きく乖離している。すでに用意された「長崎らしさ」という型が強固すぎるあまり、ストリートから自然発生的に湧き上がる新しい芽が、育ちにくい土壌だったのかもしれない。「“これってアリだよね”を一番伝えたい長崎の人に伝わってないのが現実。ほんと悔しいっすよ。ここまで伝わらないのかって」と本音を漏らす田中さん。悩みながらも、コンセプトを伝えやすい観光客向けに振り切った店舗運営をせず、あえて長崎の地元客にここまで気持ちを向ける理由はどこにあるのか。「自分自身、昔は漠然と『長崎何もないな』って思ってたんで。あの時自分が欲しかった場所とか、あの時自分が出会いたかった大人になりたいなって思うんです。もちろん長崎を離れることに良いも悪いもないんですけど。当時の自分は長崎に何があるのか知ろうともしなかったし、知る機会もなかった。もっと地元の若い子たちに、長崎にも面白い場所あるじゃん、面白い人いるじゃんって感じてほしいんです」“アリだよね”から長崎はもっと自由になる田中さんの励みになるような存在も同じ長崎県内にいる。東彼杵郡波佐見町の陶磁器メーカー「マルヒロ」が様々なアーティストとコラボして立ち上げた私設公園「HIROPPA」のディレクターを務める松尾敬介さんもその一人。洗練されたデザインを取り入れながら地域に密着した公園は、今や老若男女が集う新しい憩いの場となっている。さらに諫早市でコーヒー豆屋兼コーヒースタンドを構える「nai」の近藤彰さんとも親交が深く、オリジナルブレンドのコーヒー豆を「ALI」に卸してもらっているそう。そして隣県にも共鳴する仲間がいる。佐賀県のストリートから独自のサブカルチャーを発信する「MOBILE SPOT」を営む原田新平さんは、田中さんが特にリスペクトしている存在だ。「長崎市よりも全然田舎の場所で、めちゃくちゃかっこよくて面白いことやってる訳で。たくさん刺激を受けていますし、よく相談したり一緒に企画を考えたりしています」日々悩みながらも、新しいチャレンジは止まらない。「ALI」の1周年を迎えたタイミングで、歩いて5分の場所に抹茶ドリンクのお店「茶茶茶」をオープン。長崎新地中華街という立地から、海外からの観光客も意識して展開している。[caption id="attachment_12607" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 長崎県東彼杵産の抹茶を使用。注文を受けてからたてることで、豊かな風味が広がる。店構えはカジュアルにしながら、商品のクオリティに妥協はしない〉[/caption]「『ALI』とも全然違う業態なので、それぞれのお店を行き来しながら楽しんでほしいんです。長崎の人って腰が重くてなかなか歩かないので、そういう動線を自分たちで作っていかないといけないよねってスタッフとも話して。それが浸透するまで時間もかかると思うんですけど、最初から諦めるようなダサいことはしたくないし。飲食店を通じて、自分たちがニュースタンダードを作っていきたい。本気でそう思ってます」長崎をもっと盛り上げたい。かつての自分が憧れるようなお店や人でありたい。そのために必要なのは、粘り強く地道な取り組みとブレない姿勢だ。「まずは、自分たちがいいよねって思うものを提供し続けること。これかっこいいよね、最高だよね、アリだよねっていう感覚を大事にする。その中で共感してくれる人が徐々に増えていけばいいし、その先に長崎の人の意識の変化、そして地域の賑わいみたいな大きな目標が見えてくると思っていて。続けることの大変さも苦しさもあるけど、その中にはきっと楽しさや新しい出会いもあって。まず自分が行動して、背中を見せていこうかなって感じです」 “ちょっと最初から目標が大きすぎたかも”なんて苦笑いする田中さんだが、思い描く未来には一歩ずつ近づいている。そして「ALI」がもっと賑わうような長崎は、きっと前より面白くて、なんだか自由な街になっているはずだ。観光地のストリートから新しいスタンダードを掲げる、]]></description>
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    <title><![CDATA[「大人の言う課題に騙されるな」――ONE KYUSHUサミット2025で見えた、九州を一つの島として生きる“ハグレモノ”たちの覚悟]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/onekyushusummit2</link>
    <pubDate>Wed, 21 Jan 2026 21:00:34 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[「One Kyushu」とは、九州を一つの島と捉えて考えよう、というコンセプトだ。 九州は地理的に一つの島なのだから、「捉えて考えよう」もなにもないのだけど、現実はそう単純ではない。県は7つに分かれ、テレビ局や新聞も各県で独立し、流れる情報も違えば経済圏も違うと考えるのが一般的な感覚。実際に九州は広く、そして多様だ。しかし、それを「違う」ものとして切り分けるのか、あるいは「ひとつ」の生命体として捉え直そうとするのか。この視点の差が、これからの未来を大きく左右する。かつて2000年代に、九州市長会で「九州府構想」が掲げられ、2011年には『「九州府」を実現するための基礎自治体の強化等に関する要請』が政府に提出されたこともあった。しかし、その頃は国主導の道州制議論に連動した動きだったため、その後の政権交代で政府側の議論が停滞すると共にその火は一度消えかけていた。だが、ここにきて、地方の状況はさらに変化していく中で、九州を一つと考えるONE KYUSHUの動きは、2025年の九州市長会でもプロジェクトチームが発足し、また、フィールドで様々なチャレンジを行う民間の現場の熱量からも再燃し始めている。実は、2020年に創刊した私たち「クオリティーズ」のコンセプトもまた、“One Kyushu”だ。新幹線や高速道路、そしてSNSによって距離が縮まる中、豊かな風土を共有する「九州人」たちが、同じ「九州島」の仲間として可能性を考えることは、今より良い未来をつくるはず。そう信じ、私たちは既成概念を疑う人々——いわば“ハグレモノ”たちの歩みを追い続けてきた。そんな志を同じくする者たちが、長崎県五島市に集結した。2025年10月18日に開催された『ONE KYUSHUサミット2025 九州未来戦略会議』。行政主導ではない、民間のボトムアップで組織された実行委員会が、次世代の若手リーダーたちにバトンを繋ぎながら創り上げた、熱狂の2日間だ。 ★2024年開催回のレポート記事はこちらより👉️ONE KYUSHUサミットが提唱 「自分たち」で実現する九州のウェルビーイング〈ローカルゼブラ〉〈二拠点居住〉〈離島経済〉。 これからの地域を占う重要なテーマが交錯する中、参加した100名の「ハグレモノ」たちが何を見出し、どんな覚悟を刻んだのか。メディアパートナーとして参加し、自らも登壇者としてこの空気感を共にした私、日野昌暢が、サミットの核心をレポートする。[caption id="attachment_12623" align="alignnone" width="960"] 〈▲ セッション「地域の可能性を見つけ、育て、広げる共創の力」に登壇した、池田武司さん、門田クニヒコさん、蔡奕屏さんと日野昌暢〉[/caption]地元高校生の視点 「子どもの遊ぶ場所を作ってほしい」に込められた真意サミットの幕開けは、五島市の出口太市長と、地元の高校生4人(うち2人は福岡からの島留学生)によるスピーチで始まった。この時間は、予期せずサミット全体のマインドセットを決定づけるものとなった。島外からの参加者が半数以上を占める中、高校生たちは自らの視点で島の人口減少や地域文化の衰退を語った。しかしそのトーンは決して悲観的なものではなかった。移住者が増えることを「素敵なこと」と捉え、地元とのつながりを何よりも大切にしたいという彼らのピュアな想いは、会場にいる私たちの心を捉えた。そのバトンを受けた出口市長は、「明るい未来を描くことができた」と、噛み締めるように語り出した。「実は、この皆さんとは『高校生議会』というイベントでお会いしています。その時、五島市にはどうして子どもが遊ぶところがないのか、という質問を受けたんです。私自身もかつてそう感じて島を出た一人ですから、今も若い人たちにそういう思いをさせてしまっているのだなと思い、なんとかしなければと思いました。しかし、彼らの要望の真意は、私の想像とは全く違うものでした」(出口市長)出口市長は会場の大人たちを真っ直ぐに見据えて続けた。「彼らは言ったんです。『自分たちよりもちっちゃい子たちが遊べる場所を作ってください。そうすれば、若いお父さん、お母さんたちが子育てしやすくなるんじゃないか』と。自分たちのための遊び場が欲しいのではない。これから生まれてくる赤ちゃんや、今の幼稚園児、小学生のこと。つまり、自分より後の世代のための、“利他”の考えだったのです。本当に嬉しかったですし、その視点に救われた思いがしました」(出口市長)自分が高校生だった頃、これほどまでにコミュニティの未来を自分事として捉え、誰かのためにと願うことができただろうか。高校生ですらこのような切実な問いを立てなければならない今の社会の状況に対し、一人ひとりの大人として何ができるのか。そんな自省と希望が混ざり合うオープニングとなった。「大人に騙されるな」 課題解決という名のコントロールを疑う[caption id="attachment_12625" align="alignnone" width="960"] 〈▲ マイクを握って高校生らにメッセージを投げかける山下賢太さん〉[/caption]「大人が“課題だ”と言っていることを、そのまま信じてはいけない」トークセッション会場の最前列に座る高校生たちに、登壇者の山下賢太さんが投げかけたこの言葉が、私にとって最も印象的な瞬間だった。セッションのタイトルは『九州の離島経済と、その挑戦が描くつながりのかたち』。ここでのやり取りを通して、このサミットが単に知識を共有する場ではなく、既存の価値観を解体する場であったことを紐解いてみたい。登壇したのは、前夜祭の会場『カラリト五島列島』を運営する平﨑雄也さん(株式会社カラリト代表)、鹿児島県甑島(こしきしま)で離島経済の価値を再定義し続ける山下賢太さん(東シナ海の小さな島ブランド株式会社代表)、そしてソニーでの長年のキャリアを経て遠隔コミュニケーションシステム『窓』を手掛ける阪井祐介さん(MUSVI株式会社代表)。モデレーターの大久保敬太さん(『Ambitions』編集長)が進行を務めるなか、議論は「都市部が作り上げた虚構」への指摘から始まった。[caption id="attachment_12626" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 左から、平﨑さん、山下さん、阪井さん、大久保さん〉[/caption]阪井さんは、現代社会を覆う「不都合な空気」をこう指摘する。「人はいつの時代も『恐怖』によってコントロールされているんですよね。例えば今は人口減が社会課題ですが、昔の日本には人口増加が問題になっていた時代がありました。人口が増えすぎてこのままじゃ日本は終わると。移民だって送り出していた。その事を今、誰も言わないですよね。ほかにも東京駅から何分でつかないといけないとかで新幹線を引いたり、空港や橋がないとダメだとかでやってきたり。指摘されていた『恐怖』は本当にそうだったのでしょうか」(阪井さん)[caption id="attachment_12627" align="alignnone" width="960"] 〈▲ カラリト五島列島のデッキの夕暮れ時〉[/caption] 「一方、甑島で山下さんがやっている“徒歩400mの『幸せ』をつくる”って、それとは全然違うと思っていて。長崎でも社会課題が山積みで未来がないみたいに言うのを聞きますけど、長崎のような素敵な環境がある土地なんてないって捉え方だってできるじゃないですか。平﨑さんの『カラリト五島列島』だって最高で、世界中回ってきたけどあんな素敵なところなかなかない。もちろん課題は課題としてあるからその解決は淡々とやればいい。素晴らしいものがあるなかで『課題』の捉えかたをアップデートして、冷静にならないといけないと思います」(阪井さん)[caption id="attachment_12628" align="alignnone" width="960"] 〈▲ MUSVI株式会社代表 阪井さん〉[/caption]いつの時代も「課題」は人を動かす力がある。だからこそ課題解決は目的化しがちだ。「解決しなければならない恐怖」を前に置くほうが、人を動かす理由になり、予算もつき、仕事にもなる。しかし、山下さんが高校生たちにかけた「大人がいう“課題”に騙されてはいけない」という言葉は、高校生へのメッセージであると同時に、会場の大人たちに向けられた強烈なカウンターでもあった。既存の課題設定そのものを疑い、今の時代だからこそ作れる「幸せ」を自らの手で生み出していこう、という覚悟の表明である。離島経済の「漏れバケツ理論」と、戦略的「鎖国」のすすめ山下賢太さんは、1985年甑島生まれ。大学で地域デザインを学んだ後、2012年に故郷で起業した。古民家を再生した「山下商店」など、地域が失いかけていた機能を取り戻す活動は、全国のプレイヤーに影響を与えている。[caption id="attachment_12629" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 山下賢太さんの「東シナ海の小さな島ブランド株式会社」は、全国の地方新聞と一般社団法人共同通信社が主催する『第16回 地域再生大賞』で最高賞を受賞〉[/caption]★山下さんを取材したクオリティーズ記事はこちらから山下さんはセッションの核心である「離島経済」について、独自の理論を展開。それが「漏れバケツ理論」だ。「地域経済には“漏れバケツ理論”っていうのがあります。地域の人がお金を稼いでも、いろんなものを外から買う構造だと、穴が開いたバケツのようにお金は域外に流れつづけてしまう。お金だけでなく技術や人材も、地域の中にストックされるように足元の穴を防ぐことが重要です。だから『島を鎖国しましょう』って考え方もあると思っていて。限られたエリア内で経済を循環させる『有限な経済』のあり方を島から意識したいんです」(山下さん)ここで語れる「鎖国」という言葉は、決して排他的な意味ではない。地域の内側で価値を循環させ、自律的な強さを持つための戦略だ。私たちはグローバル化の波からは逃れられないが、地域活性化を考える際、どれだけ外から「呼び込むか」と同じくらい、どれだけ外に「流出させないか」を徹底して考える必要がある。さらに山下さんは、大企業と地域の歪な関係性についても、強い語調で続けた。「漏れバケツの穴を防ぐ“鎖国”の時に大事なのは翻訳者です。むこうの世界とこっちの世界を翻訳する人がいないから、離島経済って大変でしょ、かわいそうだねって大企業が外から、『こんな風にしたらいい、そしたらもっと儲かるのに』って、恐怖を煽られてコントロールされちゃう。それは全然違うんです、っていう翻訳者をどう育てるかが、これからの離島経済で大事なことだと僕は思っています。大企業の持っているアイデアを、あっちの都合のまま持ち込んでも価値は生まれないですから」(山下さん)名刺を捨て、酒を酌み交わす。地域における「信頼」を得るためにすることこの翻訳者としての苦闘と重要性を、誰よりも体現しているのが平﨑雄也さんだろう。五島に魅了され、東京の大手不動産会社を辞めて移住し、カラリトを創業した。東京時代に比べて年収は1/3、休日も1/3になったが、「人生の豊かさは3倍にも4倍にもなった」と笑う。平﨑さんは、大企業型のビジネス経験をベースにしつつも、島で事業を進める際に直面した決定的な「OSの違い」を語った。「五島に来た時、名刺を500枚刷って、スーツを着て名刺交換から始めたものの、それが何か違うと感じてやめて。結局、何をしているかも言わずに街でただ飲んでいたんです。すると向こうから『何しに来た人なの』って話しかけてくる。そうやって繋がっていくと、人と人との関係からまず始まる」平﨑さんは、現場で実感した「信頼構築のルール」について続ける。「それを踏まえて、その人が何をしようとしているか、という順番がすごく大事で。これは契約とか名刺交換から始まる東京や大都市のビジネスとは、全く違う流儀なんですよ。人としての信頼がベースにあると、反対していた人がいきなり応援してくれたりもする。スピードとか効率性を求めて大企業が来ても、スローなシステムとファストなシステムが全く合わないから、どうしてもうまくいかないっていうのは、肌で感じましたね」(平﨑さん)[caption id="attachment_12630" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 実体験を語る平﨑さん(写真左)〉 [/caption]成功モデルの「横展開」という幻想。スケールさせないネットワーク化さらに山下さんは、ビジネスの常識とされる「横展開」という言葉に潜む危うさを指摘する。「今、僕らのいろんな島での取り組みでは“スケールさせない”ってのを考えていて。みんな、成功事例を知りたがりますよね、ビジネスモデルは?とか。いやそんなの、そこだからできたんだよってことを、さもみんなができるかのような事例集が作られる」(山下さん)山下さんは、資本主義の論理が地域を記号化してしまうことへの違和感を隠さない。「そもそも人が違うだけでも同じようにはできないって僕は実感しているから。その代わりに小さな組織、共同体、集落をどうネットワーク化させるかをずっと考えています。成功モデルの横展開ではなく、集落を横でつないでネットワーク化させるというスケールのさせ方だから、全部がゼロイチなんです」(山下さん)「拡大」ではなく「接続」。山下さんの視線は、数十年先の未来、そして地域の尊厳を守るための新しい仕組みを捉えていた。「地理的な環境だったり、歴史的な背景だったりはそれぞれあるんですが、原理原則というものもある。人が生きていく上で大事なことをベースにした、小さな共同体のネットワーク化に今チャレンジしていて、2045年にホールディングス化しようと思っているんです。そういう小さなネットワークによる上場っていうのを、上場が目的ではないんだけど、社会的に意味のあることを肯定してあげられる社会を作っていきたいな。そんな風に思っています」(山下さん)恐怖や不安によるコントロール、課題設定のアップデート、漏れバケツを防ぐ鎖国、そして成功事例の横展開への疑義。このセッションで語られたことは、既存のビジネスロジックを信じてきた者たちへの、辺境からのアンチテーゼでもあった。 若者の「価値観がぶっ壊れた」理由 利他の精神への目覚め[caption id="attachment_12631" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 司会進行役の前田希実さん〉[/caption]サミットを終えた直後、事務局の学生パートナーとして司会を務めた前田希実さん(北九州市立大学4年)に話を聞くと、開口一番「今までの価値観がぶっ壊れました」と語ってくれた。「私は前回のサミットから関わってきたうえで、4月から企業への新卒入社を選びました。サミットに戻ってきて、司会としてゲストや参加者の話を聞いていると、皆さんが誇りを持って仕事や活動をされていて、九州のためという利他の精神を感じたんです。私は正直、自分の成長のためって思ってやってきたから、九州の人の繋がり、あたたかさ、九州愛に改めて触れて、また固定概念を壊されたという感じです」(前田さん)若者が自身の成長を第一に考えるのは当然のこと。しかし、彼女が現場で感じたのは、個人の成長を超えた「公(パブリック)」への献身が、結果としてその人を最も輝かせるという逆説だった。登壇者たちの行動やメッセージに心が動き、「価値観がぶっ壊れた」と感じたならば、それこそがこのONE KYUSHUサミットの最大の成果なのではないだろうか。なぜ「フワっとしていること」が正解なのか サミットの本質を探る今、世の中にはカンファレンスが溢れている。ネット上でどんな情報でも手に入るかのようになったからこそ、同じ場で、同じ空気を吸い、同じ体験をする価値が見直されている。たとえば、同じく九州を舞台に開催されている薩摩会議のように、社会変革の最先端にいる人達を集結させているものもある。それと比べるとONE KYUSHUサミットは、正直に言えばかなり「フワっとしている」と私は参加前に感じていた。しかし、2日間を終えて、これでいいのだと思えた。なぜ「フワっとしている」ことが正解なのか。その答えは、ある心理学の概念にある。発達心理学者で精神分析家のエリクソンは、人の一生を8つの発達段階に分け、その中で40-65歳の「壮年期」に生まれる特有の性質として“Generativity(ジェネラティビティ)”という概念を提唱している。ジェネラティビティはエリクソンの造語で「次世代を育成し、社会に貢献しようとする関心や活動」を指し、“創造的次世代育成性”とも訳される言葉だ。私自身50歳になるが、この言葉に出会って、自分の心境の変化と合致し、深く腹に落ちた感覚がある。エリクソンは同時に“Identity(アイデンティティ)”という言葉の生みの親でもある。アイデンティティは「自分は何者か」という自己認識を指し、13-22歳の「青年期」の発達課題とされる。[caption id="attachment_12632" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 『カラリト五島列島』での前夜祭の様子〉[/caption]ONE KYUSHUサミットには、独自の道を生きてきたハグレモノ的な大人たちがいて、ジェネラティビティを発揮しながら、九州の未来を語っていた。一方で、イベントを実務的に支えているのは、まさにアイデンティティを形成しようとしている若者たちだ。この「渡そうとする力」と「受け取ろうとする力」の交差。それこそが、サミットに流れるフレンドリーでジェントリーな空気の正体だったように今は思っている。ガチガチの議論で正解を導き出すのではなく、世代を超えた交流の中で「何か」が芽吹くのを待つ。この「フワっとした」包容力こそが、次世代へのバトンタッチを可能にするのではないだろうか。&nbsp;石山アンジュ 「広域リージョン」への帰属意識が未来を創る[caption id="attachment_12633" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 石山アンジュさん〉[/caption]こうした「次世代を想う個人の熱量」が、単なる感情に留まらず、社会を動かす具体的な「仕組み」へと昇華される瞬間がある。レセプションセッションに登壇した石山アンジュさん(シェアリングエコノミー協会代表理事)は、よりマクロな視点から、市民意識のアップデートを訴えた。山下さんたちが現場で実践する「島の経済圏」を、いかにして九州という巨大なフィールドへと拡張していくか。その鍵は、行政の枠組みを超えた「帰属意識」にあるという。「公共側が“広域”と言っても、人の生活は結局、地域に帰属しています。これからは、自分は九州という“広域”に住んでいるんだという帰属意識を持つような、市民側の土壌の変化が必要だと思うんです」(石山さん)石山さんは、かつての「道州制」の議論を振り返りながら、今こそがその再定義のタイミングであると強調した。「今まで“絵に描いた餅”だった道州制の議論は、次の100年の地域の持続可能性のために、再び考える局面にあるのではないでしょうか。トップダウンの議論が停滞していた今だからこそ、現場の意識が広域へと向かうことが不可欠です」(石山さん)奇しくも2025年秋、石破政権下での「広域リージョン連携」の促進という国レベルの動きと呼応するように、九州地域戦略会議も新制度の活用をいち早く宣言した。半導体産業の集積やスタートアップ支援、さらには「ツール・ド・九州」のようなスポーツを通じた広域連携まで、九州は今、一つの「島」としての巨大な実証フィールドになろうとしている。行政が描く大きな構想と、現場のハグレモノたちが起こすボトムアップのうねり。その両輪が「One Kyushu」という一つの確かな輪郭として揃いつつあるのが、現在の九州の姿なのだ。&nbsp;実行委員長・髙田理世 孤独な「ハグレモノ」たちが「カラフル」に集う場所[caption id="attachment_12634" align="alignnone" width="960"] 〈▲実行委員長の髙田理世さん〉[/caption]最後に、実行委員長を務めた髙田理世さんの言葉を記したい。サミットを終えた直後、彼女は少し晴れやかな表情でこう語ってくれた。彼女を突き動かしたのは、「私自身が九州に魅了されながらも、一人ぼっちだ」と感じたからだったという。「去年は見えない霧の中を突っ走っている感覚でしたが、今回は『ONE KYUSHUサミットが何のためにあるのか』を皆さんに教えてもらった気がします。正直、実行委員長のオファーをいただいた当初は、『私でいいのか』という戸惑いがありました。でも、九州の同世代の多くが東京を目指す中で、九州に残って面白いことを企てている人って、やっぱり『変わっている』とか『尖っている』部分はあると思うんです。良くも悪くも個々人でいる。そういうバラバラの個人が、ここに集って、それぞれの取組や考えをシェアすることで同志になれるんだなって。そんな“緩やかなチーム”をつくっていくのがONE KYUSHUサミットなのかなって、今回思えました」(髙田さん)既定路線を外れて独自の生き方を探ることは、現代において「何者かにならないといけない」という強迫観念を生みがちだ。かつての地域社会では、与えられた役割を果たすことが社会を支えていたが、現代の都市化はその繋がりを分断し、個々人を孤独に追い込んでいる。地域が持つ資産の価値を信じ、新しい生き方を模索する人々が集まるこの場には、一人ひとりが抱える「ひとりぼっち」が、誰かのそれと響き合う瞬間があった。髙田さんは、そんな状態を“カラフル”だと言った。「ONE KYUSHUサミットは、ハードルが低くていいと思っています。今日、偶然口から出たんですけど、“カラフル”だなって。薄いとか淡いとかではなくて、それぞれが強烈に尖っていて、よくわかんないけど面白い、というカオス感。それが九州の特徴なんだと、改めて思えました」(髙田さん)次回の開催はまだ未定だという。しかし、この2日間で生まれた熱量は、特定の日にちや場所に縛られるものではない。九州を一つの「島」として捉え、自らの足下にある価値を再定義し、次世代へとバトンを繋ごうとする「ハグレモノ」たち。彼らの孤独が響き合い、重なり合うことで、九州という島の風景は少しずつ、しかし確実にカラフルに塗り替えられていく。行政主導ではない、民間プレイヤーのボトムアップから動き出したこのうねりは、すでに止めることのできない確かな鼓動となって、この九州という島に根づき始めている。クオリティーズもまた、その鼓動を伝え続ける一員でありたい。サミットは終わったが、私たちの“One Kyushu”という旅は、ここからまた新しく始まっていくのだ。[caption id="attachment_12636" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「てとば美術館」で出会った五島の絵 “夕立の空”(作者:久保晶)〉[/caption]]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[地域カルチャーがもたらした光、その先にある景色    南九州のデザインとものづくりの祭典「ash Design &amp; Craft Fair」]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/ash</link>
    <pubDate>Fri, 14 Nov 2025 07:00:15 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[秋も深まり、時折り吹く風に落ち葉が舞い上がる11月後半。鹿児島や宮崎のあちらこちらでは、一冊のガイドブックを手に、町めぐりを楽しむ人々の姿を見かけるようになる。毎年、南九州で秋に開催されるデザインとものづくりのイベント「ash Design &amp; Craft Fair(アッシュ・デザイン&amp;クラフトフェア)」をご存じだろうか。2週間あまりの期間中、ショップやギャラリーなど複数の会場で、陶芸や木工、絵画やイラストといったさまざまなジャンルのクリエイターが作品を発表する。17回目となった昨年(2024年)は、74の会場と100組のクリエイターが参加。会場エリアは鹿児島市を中心に県内各地と宮崎県にもまたがり、両県に暮らす人はもちろん、フェアを機に旅を兼ねて九州を訪れるという全国のファンも多く集う。18回目を迎える今年も、例年通り11月下旬より開催が予定されている。[caption id="attachment_12238" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 昨年のオープニングイベントより。参加作家や店舗が出店し、音楽ライブが行われるなど、終始和やかな雰囲気だ(撮影:秋田 啓吾)〉[/caption]鹿児島在住の筆者にとってもashは楽しみな秋の風物詩で、毎年、時間の許すかぎり会場を回っては、新しい作品やクリエイターとの出会いに心を躍らせてきた。そして昨年からは、実行委員としてashに関わるようになった。それまではお客さんとして外から眺め、ただ楽しんでいただけのashを、内側から知り、少しずつ人とつながっていく中で、「ashをもっと知りたい」「ほかの人にも知ってもらいたい」という思いが湧き上がってきた。ashとは、一体何なのか――今回、記事をつくるにあたり、現在のash実行委員会のメンバーに話をうかがった。18年もの間続いてきた、そしてどこか掴みどころのないashについて、その名前も知らなかったという人にも、ともに長く歩んできた人にも、しばしの間、“ashを紐解く旅”にお付き合いいただけたらうれしい。2008年、はじまりはフリーマガジンの特集記事ashが誕生したのは、2008年。11回から13回まで実行委員長を務め、天文館にて雑貨店・OWLを経営する馬場拓見さんは、当時の鹿児島について、少し特殊な時期だったと話す。[caption id="attachment_12234" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 左から、ash実行委員会・委員長の中森陵さん、委員の馬場拓見さん、桑原田優佳さん〉[/caption]「私が店を始めたのは2008年でした。その少し前の2007年、鹿児島市にイオンモールができたんです。鹿児島が、いわゆる“最後にイオンができた県”と言われた頃ですね。イオンに限らず郊外に大型の商業施設が次々とできる中で、個人で店を始めるのは無謀、そんな空気がありました。奇しくも2008年、東京で『ランドスケーププロダクツ』を主宰していた中原慎一郎さんが、家具職人の川畑健一郎さんとともに故郷・鹿児島にインテリアショップ『DWELL』をオープンされたんです」(馬場さん)ランドスケーププロダクツは、住宅や店舗内装のインテリアデザインのほか、オリジナル家具や小物の販売、ショップや喫茶店の運営などを手がける会社だ。古き良きデザインをルーツにした独自の審美眼で、常に新しい“ものづくり”を提案し続けている。「当時、大型の商業施設やチェーン店の拡大によって街の風景が均質化していく中で、世の中に『ローカルを見つめ直そう』というムードがありました。ライフスタイル誌が次々に創刊され、何度目かの民藝ブームの影響も重なっていた頃です。アパレルのセレクトショップが、品揃えに奥行きを出すために、器や生活雑貨を取り入れ始めた時代でもありました。その流れのひとつを東京で牽引していたのが中原慎一郎さんで、その中原さんが鹿児島でお店を始められた。DWELLには、マガジンハウスなどの編集者が毎月のように訪れ、雑誌で取り上げていました。それを見て、また新しい面白い人が集まってくる。私の店だけでなく、鹿児島のさまざまな人や場所が掘り起こされ、“魅力的な鹿児島”として紹介されていきました。外から来た影響力のある人たちが、同じ“鹿児島”の仲間として地元の個人商店をつないでくれた、そんな感覚がありました。そうした循環の“起点”を、まさに目の当たりにした瞬間だったと思います」(馬場さん)つまりashは、押し寄せる時代の波≒中央集権的な巨大資本に対して、自分たちの足元にある価値を見つめ直し、新たなローカルのあり方を模索しようとするプレイヤーの中から、必然的に生まれたムーブメントだったのである。同じ頃、東京からUターンで鹿児島に戻ってきたグラフィックデザイナーの清水隆司さんが、「Judd.(ジャッド)」という名のフリーマガジンの発行を始めた。2008年の11月に発行した、Judd.第2号の企画としてはじまったのが、ashだ。第1回目のashでは、馬場さんが営むOWLや中原さんのDWELL、カフェや雑貨店などの24店舗が参加し、陶芸や木工、絵画などの展示販売を行った。作家とショップが一緒になって展示をするスタイルと、ショップを巡ってプレゼントがもらえるスタンプラリー企画、この二軸は、最初からあったという。紙媒体を手に取って町を巡るスタイルも、今と変わっていない。[caption id="attachment_12226" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 2008年秋に発行したフリーマガジンJudd.2号より。ページ企画としてashがスタートした〉[/caption]その後、3回目まではJudd.の清水さんが主導する形で続いた、ash。フリーマガジンの企画として始まり、数回実施した時点で、その役目を終えてしまってもなんら不思議ではなかったはずだ。しかし4回目以降も、参加作家やショップが集まって実行委員会を結成し、開催を続けた。実行委員が運営する形は、現在まで引き継がれている。馬場さんは言う。「幸いだったのは、清水さんが3回まで主催し、4回目からはその後の運営を、参加者だった作家やショップに預けてくれたことです。これがきっかけとなり、自然と世代交代の仕組みができました。地方のイベントだと、志の高い人が一人で運営を背負いすぎて、7〜8回目あたりで燃え尽き、10回目で終わってしまう。そんな話をよく耳にします。ashが続いたのは、この “ゆるやかに3年で代が変わる” という仕組みができたからだと思います」(馬場さん)清水さんはその後もデザイン面などでashに関わりながら、作家をビームスジャパンをはじめとするセレクトショップのバイヤーに紹介。鹿児島に呼んでアテンドを行ったり、作品の魅力を伝えたりして、作家とビジネスを繋げるための大きな役割を果たしている。そして実行委員長は、4回目から6回目を革作家の飯伏正一郎さん(RHYTHMOS)が、7回目から9回目を木工アーティストのアキヒロジンさん(AkihiroWoodworks)が務めた。鹿児島を拠点に活動していた彼らに共通していたのは、自身のものづくりをさらに深めながら、より広く、多くの人に届けたいという思いだった。飯伏さんもアキヒロさんも、今や全国的な人気作家だ。飯伏さんは全国のセレクトショップを行脚しながら販売を行い、アキヒロさんはブルーボトルコーヒーとのコラボや、ニューヨークでの展覧会開催など、ともに活躍を続けている。[caption id="attachment_12239" align="alignnone" width="960"] 〈▲飯伏正一郎さんの革工房・RHYTHMOS(リュトモス)の定番は、牛ヌメ革を手縫いした財布「Zip(L)」〉[/caption][caption id="attachment_12232" align="alignnone" width="960"] 〈▲アキヒロジンさんが手がける、Akihiro Woodworks(アキヒロ・ウッドワークス)「jincup」シリーズより。最新作の「jincup Urushi Hybrid Green(Urushi × TABUNOKI wood)」〉[/caption]混乱した10回目がターニングポイントに 「それでもやはり、みんな制作と運営の両立が大変になってきて、10回で終わろうという話が出ました。10回目は実行委員長を置かずに盛大にやって終わろう、と。けれど、舵を取る人がいないと意見がまとまらず、資金を使い果たすような混乱した回になってしまいました。店をやっている側としては、ashを楽しみにしているお客さんの顔も見えていたので、なんとか続けてほしいという思いがあったんです。なので3代目のアキヒロ君に『続けてほしい』と伝えたら、『馬場さんが実行委員長をやるなら(ashを続けても)いいんじゃない』と言われて。それで私が、11〜13回目を担当することになりました」(馬場さん)この混乱と存続の危機が、ashが次のステージへ向かうための、重要なターニングポイントだったと馬場さんは振り返る。それは、コミュニティが自らの課題と向き合い、よりしなやかで持続可能な形へと自己改革を行うきっかけとなった。そして、この時期を境に、ashは三つの大きな変化を遂げていく。一つ目は、運営体制の変革だ。それまで実行委員長はデザイナーや作家が担っていたが、運営に時間を取られ、本分である制作が止まってしまうという構造的な問題があった。そこで、11回目からは事務的な動きがしやすい店舗経営者が実行委員長を務め、作家は制作に集中するという体制へとシフト。これにより、クリエイターの創造性を守りながら、イベントを安定して継続させるための基盤が整えられた。二つ目は、表現の多様化である。イラストや写真などのビジュアル作品を発表する作家の活躍を受け、11回目のオープニングイベントでは、イラストレーターをフィーチャーしたトークショーやライブペイントを開催するなど、新たな才能への門戸をさらに広げた。「当時、クラフトや工芸の領域だけでは、表現の受け皿としての限界を少しずつ感じはじめていました。東京アートブックフェアのような盛り上がりを見て、イラストや写真、グラフィックの作り手たちにとっての発表の場を担えないかと考えたんです。これが、ものづくりに特化した他のイベントとは違う、ashの多様性につながっていると思います」(馬場さん)この試みの後、翌12回目にはiPadなどで制作する若い世代のクリエイターが一気に参加。ashはより多層的で、時代の空気を反映したプラットフォームへと進化した。そして三つ目が、エリアの拡大とアイデンティティの再定義だ。12回目からは宮崎の都城なども巻き込み、“南九州”のイベントへと成長。それに伴い、「ash Satsuma design &amp; craft fair」だったイベント名から、鹿児島の旧国名である“Satsuma(薩摩)”を外した。これは、特定の地域の枠を超え、より開かれた存在になるという意思表示でもあっただろう。こうして24の店舗から始まったashは、数々の変化を経て、12回目には47会場・61組の作家が参加する規模のイベントに。その後も着実に広がりを見せ、18回目の今年は、91会場で116組の作家が展示を予定している。[caption id="attachment_12230" align="alignnone" width="960"] 〈▲2025年のashも、奄美大島や屋久島などの離島を含む鹿児島県内と宮崎県で開催される〉[/caption] ものづくりへの世界への「扉」としてメイン会場がなく、広範囲に会場が点在するashでは、必然的にお客さん一人ひとりがキュレーターとなる。ガイドブックを手に、どのルートで、どの作品に会いに行くか。その計画を立てる時間から、“自分だけのash”が始まっている。目当ての会場を訪ね、作家が在廊していれば、気軽に本人とコミュニケーションを取って感想を伝えたり、質問をしたり、それは特別な体験だ。創作への思いや、作品が生まれる背景を直接聞くことで、作品の見え方やものづくりに対する考え方にも変化が起こるかもしれない。時には「ついでに寄ってみた」会場で、新しい作品や作家と出会うこともあるだろう。会場によっては作品の展示販売だけでなく、作家と一緒に創作ができるワークショップや、作品のオーダー会、ライブドローイングなど、展示から派生したイベントも開催する。ashは、訪れる人々にとって、ものづくりの世界の奥深さへと通じる「扉」のような役割を果たしているのだ。町めぐりの相棒・公式ガイドブックこの体験を支え、ashを語る上で外せないのが、実行委員会が制作し、無料で配布する公式ガイドブックの存在だろう。デザイナーやライターを本業とするメンバーが中心となり、毎年、質の高い一冊を作り上げている。[caption id="attachment_12233" align="alignnone" width="960"] 〈▲これまでのashガイドブックと、Judd. のバックナンバー〉[/caption]ガイドブックには、参加作家や会場紹介はもちろん、作家の工房を訪ねる特集記事、町めぐりの途中で立ち寄りたくなる飲食店や宿泊施設、温泉なども掲載されている。単なるイベントマップに留まらない内容と情報量のため、会期が終わっても保存し、日常的に使うファンも多い。県外の人にとっては、帰省や鹿児島旅の心強い相棒となるのだ。元々、Judd.の清水さんが担っていたデザインは、12回目より、デザイナーの二野 慶子さん(PRISMIC DESIGN)が引き継いだ。二野さんは「たまたまカフェでJudd.を見かけて第2回にアクセサリー作家として参加した」ことからashに関わり始め、「気づいたら実行委員会に入っていた」と笑う、ashの歴史を知る一人。彼女をはじめ、デザイナーの存在が、リーダーが交代していく中でも、ashが守るべきデザインの質や世界観の連続性を担保する、重要な役割を担ってきた。媒体としての価値も高いガイドブックは、近年、コミュニティを支える営業ツールとしても機能するようになった。ashの運営は基本的に作家や展示会場からの参加費でまかなわれるが、それに加えて「実行委員おすすめの店」として掲載する飲食店や宿泊施設などから、協賛金を得られるようになったのだ。これは「展示会場としての参加は難しいが、ashには関わりたい」という店側の要望に応える形で始まったもので、掲載店舗への声かけは実行委員が分担し、本当におすすめしたい店に一軒ずつ行っている。これは単なる広告収入ではなく、イベントの哲学に共感する地域プレイヤーを可視化し、緩やかな経済圏を育む試みだともいえるだろう。[caption id="attachment_12231" align="alignnone" width="960"] 〈▲ガイドブックには、出店作家の工房やアトリエを取材する「工房探訪」の連載企画ページも〉[/caption]それぞれの立場で思う、ashがもたらしたもの 18年という歳月を経て、ashは多様な人々が交差するプラットフォームへと成長した。参加作家や店舗、実行委員は、それぞれの立場でashから何を受け取り、何をもたらしてきたのだろうか。店舗経営者である馬場さんは、ashがビジネスの新たな可能性を切り拓いたと語る。「私の場合、このイベントを通じて陶芸家や木工作家と出会い、オリジナル商品を企画できるようになったことが大きな変化でした。それをきっかけにして、店のオリジナルアイテムを全国のショップに卸すBtoB事業が始まりました。作家にとっても、店舗との取引を通じて価格設定や掛け率など、ビジネスの仕組みを学ぶ実践的な場になっていると思います」(馬場さん)これは、ashが単なる文化イベントに留まらず、地域のクリエイターと企業を結びつけ、新たな経済活動を生み出す“インフラ”として機能していることを示す好例だろう。ashで広報や渉外を担う桑原田優佳さんは、また別の側面を挙げる。広告代理店の営業からランドスケーププロダクツ・中原さんが関わる会社に転職し、現在は、一般社団法人リバーバンクの代表を務める桑原田さん。鹿児島で何かしたいと考えていた時に、馬場さんから声がかかり、実行委員会に参加したのが始まりだ。「作家でも店舗経営者でもない立場からすると、ashは外部と繋がる窓口としての役割があると考えています。例えば、文化庁や鹿児島市と連携してashの会期に合わせてイベントを開催したり、事業を実施したり、といった動きも生まれました。作家やお店、それぞれにファンを持つプレーヤーが集うプラットフォームとしてashがあることで、行政など外部の人たちも新たな取り組みを始めやすくなっていると感じます」(桑原田さん) 現在の実行委員長である中森陵さんは、「ashからもらったものは全て財産」だと、その繋がりがもたらす価値を語る。鹿児島市郊外で、たんすの肥やしという名のギャラリー兼ショップを営む中森さん。かつて店員として働いていたビームス鹿児島店がashに参加したことをきっかけに、ashに関わるようになった。7年前から実行委員を務め、4代目の柳田圭介さん(雑貨店oginna店主)から引き継ぎ、昨年より委員長を務めている。「シンプルに、知り合いがめちゃくちゃ増えましたね。県外でも鹿児島から来たと言うと『ああ、鹿児島といえばashですね』と返ってくることがあります。先日も、『ashで鹿児島に遊びに行きたいとずっと思っています。今年こそ行きたいんですよね』と言われました。ashで繋がれた人は本当に多いです」(中森さん)中森さんは、昨年から作家としてもashに参加している。ユニットを組み、写真と物語のコラボレーションで自分たちの世界観を表現する。「昨年は自分の店で展示をしましたが、今年は別の店でやろうと試みています。作家として表現したいという思いと同時に、実行委員長として、出展者側の立場や気持ちを理解したいというねらいもあります。委員長が作家として参加することについては、必ずしも好意的な声ばかりではないのですが、いいものを作っていると胸を張って言えるし、ashの質を落とそうとも思わない。それくらい、真剣に作品と向き合って作っています」(中森さん)中森さんのように、実行委員長であり店舗経営者でもありながら、作家としてもashと関わろうとする存在がいることは、ashという場所ならではの動きに思えてならない。それは、運営や作家など立場が違っても、ashに関わる人々が共通して持つ、表現やものづくりに対する思いや造詣の深さを表し、と同時に、ashの風通しの良さや境界のあいまいさの象徴ともいえるだろう。中森さんの言葉にある「いいものを作っているし、真剣に作品と向き合っている」という思いを皆が持ちながら、互いにリスペクトし合い、切磋琢磨を続けているのだ。ゆるやかに繋がりながら、ただ続けてきた筆者が実行委員になってからこれまで気になっていたのは、「ashらしさ」とは何だろうということだ。昨年初めて出展者の選定に携わったが、明確な基準が言語化されないまま意見が交わされ、審査が進んでいく様子に戸惑いを覚えた。しかし、メンバーの間には、明らかに共有された一つの感覚が存在するように見えた。そのことを尋ねると、中森さんが答えてくれた。「続けていく中で、なんとなく『ashの展示ってこうだよね』というニュアンスを皆が掴んでいく感じです。この作家さんはこの会場だと合わないかもしれないけど、別の会場なら良いかもしれない、といったことも皆で話し合って決めています。作家さんや会場については、運営の舵取りができる範囲でなら、よりたくさんの人に参加してもらうのはいいことだと考えています。ただし、誰でも出られるイベントになってしまうと何をやっているのかが分からなくなるので、審査は行います」(中森さん)そして、馬場さんが続ける。「精査しすぎたり、ashらしさを明確に言語化したりすると、それに合っているかどうかでジャッジするイベントになってしまう。そうではなくて、町のお祭りのような多様性があった方がいいと思っているんです。だから意識的に“尖らせすぎない”ことで、いろんな人が入りやすいようにしてきました。私個人としては、ashに出たいと応募してきた時点で、一つの審査をクリアしたようなものだと捉えています。“ashに出たい”と思う感性こそが、もうすでにashらしさなんです」(馬場さん)この「あえて明確にしない」という姿勢こそ、ashが18年間続いてきた根幹にある、意識的な哲学だろう。それは、出展者の選定に限った話ではない。すべてが流動的で、実行委員長も基本的に3年で代わる。固定化されたルールで縛るのではなく、その時々の人々の解釈に委ねる余白を残す。この「ゆるさ」が、組織の硬直化を防ぎ、時代や人の変化に適応するしなやかさを生んできた。「ashの目的をしいていえば、続けること。ashで生まれる繋がりは“インフラ”のようなものだと感じています。例えば、鹿児島にUターンしてきた人が地域と繋がりたいと思った時、ashを訪ねれば緩やかにコミュニティと交われる。また、何か創作活動をしたいけれど鹿児島を出て行く勇気はまだない、そんな若い作家が、作品をつくり、しっかり見てもらえるきっかけにもなる。もしashを“インフラ”とするなら、その循環を絶やさず、続いていくことそのものがいちばんの価値なのかな、と」(馬場さん)[caption id="attachment_12240" align="alignnone" width="960"] 〈▲2024年のオープニングイベントは、作品の豊作を祝して新作を奉る「クラフト新嘗祭」をテーマに開催した(撮影:安藤 太雅)〉 [/caption]ashから各地へ、広がる地域カルチャーの波桑原田さんは、「以前、ashを見て『自分たちの街でもやりたい』と小倉で同じようなイベントを始めた方が、訪ねてきてくれたことがあって」というエピソードを語った。「私たちがやっていることが、他の地域にも影響を与えているのは純粋にうれしいですね」。中森さんもまた、山口の下関で活動する木工作家から「参考にさせてほしい」と質問を受けたことがあるそうだ。そして、鹿児島県内でも、市街地以外のエリアでashを参考にしたイベントが行われていたり、ashの発信を自主的に行う自治体が出てきたり、クリエイティブや地域性を大事に思う文化が、波紋のように広がっている。「新たな創作との出会い」を掲げて18年前に産声を上げた、ash。イベント名の由来にもなっている鹿児島・桜島の火山灰(ash)のように、ものづくりの文化は静かに、遠くまで広がってきた。時代の変化や、人、作品、場所が持つそれぞれの違いを柔軟に受け入れ、面白がりながら、緩やかに繋がってゆく。質の向上と自己研鑽には、力を惜しまない。そうやって仲間と楽しく過ごす日々が、鹿児島、そして宮崎にはある。最後に、ash実行委員として全員が声を揃えた。「県内外問わず、もっと多くの人に知ってもらい、ashや鹿児島、宮崎に遊びに来てほしいですね。ashが、南九州という地域全体の底上げになれればいい。地域の中でいがみ合うのではなく、緩やかにまとまって、“鹿児島や宮崎が何だか楽しそう”という雰囲気が伝わればとてもうれしいです」ash Desigh &amp; Craft Fair 2025アッシュ・デザイン&amp;クラフト・フェア / 毎年秋に鹿児島・宮崎で開催する、デザインとものづくりのイベント。2025年の今年は、11月22日(土)～12月7日(日)の期間中、91の会場にて116組のクリエイターが、作品の展示販売を行う。ash公式ホームページ▶︎ https://ash-design-craft.com/18/]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[鹿児島発、異彩のカンファレンス『薩摩会議』の熱源の正体]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/satsumakaigi</link>
    <pubDate>Fri, 07 Nov 2025 21:00:31 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[ずっと気になっていた鹿児島のカンファレンス『薩摩会議』。日本全国で地域に向き合う“現場”を創っているプレイヤーたちが、なぜこの地に集うのか――毎年、SNSに流れてくる参加した人々の熱量ある投稿が気になりながらも、その熱源の正体は掴めていなかった。この問いの答えを探し、私は『薩摩会議2025』(主催:NPO法人 薩摩リーダーシップフォーラム 略してSELF)に参加を決めた。「そこ」には、ボトムアップ型で変革に挑む人たちが集っていた。今の社会システムが限界を迎えていると感じる「彼ら」は未来を見据えて“変わる”ことを選んでいた。議論を交わし、対話を重ね、そして身体を動かす――現地を訪れ、山を歩き、海を渡り、踊り、歌った。このように書くと薩摩会議が何をやっているか余計にわからなくなるかもしれないが、ここでは“身体性”という言葉が繰り返し意味を帯びていた。どうすれば鹿児島からしか生まれ得ないカンファレンスになるのか? そこから本当に変容が起きるのか? なぜ、他のカンファレンスには行かない人がこの場には来るのか? ボトムアップ型の変容が可能ならそれには何が必要なのか? 大企業は地域とどう向き合えばいいのか?前夜祭を含む『薩摩会議』の4日間を体験した私・日野昌暢が、参加してもなお捉えきれないこの“会議”の熱源の正体をレポートしたいと思う。薩摩会議2025の2泊3日とその根底にある「問い」『薩摩会議』は、2022年に始まり、今年で4回目だ。参加者数は昨年の約400人から580人へと増えている。基本形は「2泊3日での通し参加」で、参加費は60,000円。各エリアへの移動やパーティへの参加などは別途かかるスタイルだ。主催は鹿児島を拠点とするNPO法人・薩摩リーダーシップフォーラム(SELF)で、全国から集まる実践者たちと「同じ土の上」に立つことを狙っている。SELFは鹿児島という土地を「変革のDNAを持つ場所」だと位置づけ、そこから新しい変容を起こそうとしている。初日(DAY1)は鹿児島市内に全員が集まり、「対話」「共生」「人類」といった大きなテーマを軸にした基調セッションが続く。ここではいきなり解決策を詰めるのではなく、「150年後の世界に、私たちは何を遺すのか」という問いを正面から扱う。この“150年後”というスケールは、薩摩が大きく関わった明治維新から現在までの150年超に対して、これからの150年をどうつくるかという意味だ。明治維新を「不可逆な変容=トランスフォーメーション」と捉え、同じレベルの変化をこれから先に起こせるのかを問うということだ。2日目(DAY2)は“現場”へ。参加者は鹿児島・宮崎にまたがる13の地域に、30～40人規模の単位で分かれて移動する。奄美大島や屋久島、甑島といった離島も含まれる。それぞれの地域は「視察される場所」として受け身で待つのではなく、「うちに来てほしい」と自ら手を挙げた側だ。各エリアはそれぞれ、「食」「文化」「地域生態系」「開発」「日本ブランド」「地域経営」「まちづくり」「平和文化」「行政」「公共」「集落」「アニミズム」「流域」などのテーマが掲げられていて、参加者は自分が行く地域を1つ選び、そこに飛び込む。課題や挑戦の当事者たちのど真ん中に、招かれる形で入っていく設計になっている。その人数規模も含めて、土地の手触りや温度を共有するためのサイズ感なのだろう。日中はそれぞれの地域の現実に触れ、夜はその土地で語り合う。移動も滞在もプログラムの一部として組み込まれていて、この“身体で感じて考える”時間こそが、薩摩会議が繰り返し口にする「身体性」という言葉の具現のひとつだと感じた。私は、「食」をテーマにする阿久根市のコースに参加した。3日目(DAY3)の朝、参加者は再び鹿児島市内の城山ホテルに戻る。ホテル内の4つの会場でセッションが同時進行し、用意された12本のプログラムから自分が参加する3本を選ぶ方式だ。最後に全員がクロージングセッションに集まり、フィナーレを迎える。つまり、全員が同じ話を聞くわけではないし、誰も全貌を把握できない。むしろ「全部は追えない」ことをあえて前提にしたまま、抽象(DAY1)から超具体(DAY2)に振り、最終日にまた抽象と具体を往復させるように3日間がデザインされている。運営側は、去年まで使っていたオンライン質問ツール「Slido」もやめた、と説明していた。画面越しの匿名質問ではなく、同じ空間にいる身体同士でぶつけ合うほうに振り切ったということだ。ここにも「身体性」にこだわる姿勢が出ている。今年のコンセプトは「道は邇(ちか)きに在り」。孟子の言葉で「人の進むべき道は本来すぐ足元にあるのに、人はつい遠くに答えを探そうとする」という趣旨の意味だとされる。薩摩会議は、まず対話で思考を揺さぶり、次に現場で身体でそれを感じさせ、そこで拾った変容の火種を抱えたまま、日々の暮らし=自分の足元に戻れと言っているわけだ。言い換えるなら、「遠い理想ではなく、明日からの現場を変えろ」というところまでを含めてのカンファレンス設計である。この強い設計思想の根底に横たわっているのが「150年後の世界に、私たちは何を遺すのか」という問いだ。この問いは誰も即答できないほど大きいが、だからこそ全員で話し、考え、動こうという呼びかけになっている。薩摩会議は、鹿児島という土地を起点にしながらも、現代の社会システムに行き詰まりを感じている人たちが、それでも変わろうとするための集まりなのだろう。「戦争」の反対語は「平和」ではない。「戦争の反対語は平和ではなく、対話。対話に必要なのは鎧を脱ぐこと。みなさん、鎧を脱ぎましょう」オープニングのスピーチに登壇した日置市長の永山由高さんは会場にそう投げかけると、上着を脱いでワイシャツの袖を破ったノースリーブ姿になりエアギターを披露した。これは薩摩会議のオープニングの恒例のようで、“鎧を脱ぐ”ためのマインドセットを作りながら、薩摩会議が大切にしている“身体性”を象徴しているのだろう。「鎧を脱ぐ」とは、所属や立場で話をするのではなく、人と人としての話をしようということだ。永山さんに続けとばかり、会場に集まった参加者らは次々とステージに上がった。[caption id="attachment_12148" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 自身が過去に日本2位になったことがあるエアギターを披露する永山さん(写真中央)と、ステージに上った参加者たち〉[/caption]薩摩会議の根底に据えられるコンセプト「対話」とは。永山さんが進行役を務めた基調セッションのテーマは「対話」。登壇したのは、中野民夫さん(本然庵屋久島)、坂口修一郎さん(BAGN)、高橋大就さん(驫&lt;ノーマ&gt;の谷)。対話という言葉の定義について、ファシリテーション領域の第一人者でもある中野民夫さんは「議論はdiscussionで、勝者と敗者が生まれてしまうし、結論が求められる。しかし対話はdialogueで、勝ち負けや正解はない。教えるのではなく、学び合うことが大切で、上意下達の構造ではない」と説明する。「対話」をコンセプトに置く薩摩会議は、ひとつの結論や正解を拙速に出すことを目的にはしていない。だからこそ、参加した人々が薩摩会議を言語化しにくい面がある。大きな刺激を受けながらも「頭がぐちゃぐちゃになった」や「居心地が悪かった」という感想もよく聞いた 。頑張っている人でも、コンフォートゾーンから引っ張り出されて、問いを投げかけられ、安易に一つの結論に落とすことが難しくなる。でもこの迷いは成長になる。対話は「対話をしよう」と言ったからできるものでもない。だからこそ、薩摩会議は対話という姿勢を大切にするメッセージを立たせながら、対話で変容を産んでいこうと投げかけ続ける。人間は、追い詰められないと変容できないのか。このセッションの中で、永山さんからボトムアップの難しさについての投げかけがあった。「ボトムアップって本当に難しい。1%に届いたと思っても99%には届かない…と思わされることがたくさんあった。こうやって鹿児島に意識が高い人が500人集まって、何かを変えることができるのか」永山さんは、民間からまちづくりを仕掛けてきた“ボトムアップ側の人”である。2011年に鹿児島天文館総合研究所Ten-Labを立ち上げ、自治体や地域の現場とともにコミュニティづくりや事業づくりを進めてきた。その一方で、2021年からは鹿児島県日置市の市長として、典型的なヒエラルキー組織である行政のトップにも立っている。つまり彼は、“下から変える現場”と“上から動かす現場”の両方を知ってしまっている人間だ。その視点からあえて「本当に変われるのか」と問い直しているわけだ。この問いに、福島県浪江町から参加した高橋大就(たかはし・だいじゅ)さんが応じる。高橋さんは元・外務省、マッキンゼーを経て、原発事故後の浪江町に移住し、地域の再生に関わっている。「僕は原発事故で一度誰も住めなくなった福島県浪江町から来ています。浪江町では新しい社会を、町を、自分たちが作ろうという人が集って動いているんです。町のドンたちも全員が外に出ざるを得ず、みんながマイノリティを経験したからこそ、外から来た人にもオープンで、“みんなでやる”という感覚になっている。行政に頼るのではなくて、自分たちのことは自分たちでやらないといけない。民主主義って、選挙のことではなく『自分たちでやる』ということ。それでできないことを行政に託す、という順であるべきなんです」そこまで語ったうえで、高橋さんは一番の懸念を口にした。[caption id="attachment_12149" align="alignnone" width="960"] 〈▲ DAY 1 基調セッション①「対話×transformation」の様子〉[/caption]「この『自分たちでやる』ことの楽しさがもっと広がってほしいと思っていて。でも、人間って、黒船とか、原爆とか、原発事故のように、命にかかわるレベルの危機を経験しないと変われないのか。そうだとしたら悲しすぎる結論だと思う。みなさん、どう思いますか」“変わる”ことは、結局いつも最悪から始まるのか。地域が立ち上がるのは、崖っぷちに立たされたときだけなのか。「そうだとしたら確かにそれは悲しすぎる結論だと思う」と語った永山さんは、それでも希望はあるはずだ、と続ける。「これは持論だけど、変化や変容をつくるには、楽しいと思いながらみんなが思わずやってしまう“エンタメ性”が大事だと僕は思っていて、これはつくれるはずだと思っている。人が“やりたい”と思って動いてしまうようなエンタメ性。『変えてやる』って押しつけるのはウザいしね」坂口修一郎さんもその意見にうなずく。坂口さんは、長くローカルとカルチャーの現場に関わってきた立場から、変容のエンジンは「楽しさ」と「美しさ」だと言い切った。「楽しくなければ続かないしね。その根本は人の話を聞くこと。引き出すのが上手って人もいるけど、それも上からみたいで嫌だなと僕は思っていて。その人がいると自然とそうなるような。つまり、みんなから溢れ出すような状態を創ることが大事。吉田茂の息子で、英文学者 / 文筆家の吉田健一が『戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである』と言っているけど、これは本当にそうで。150年後の世界も大事だけど、この10年でそういう“執着したくなるような美しさ”を自分の手元につくれるのかも大事だと思う」(坂口さん)誰かが用意した“正しい未来像”ではなく、自分の毎日のまわりに「これだけは守りたい/これが続いたら嬉しい」というものをちゃんと持つこと。その執着が、戦争(=破壊)に抗う。つまり、破壊ではなく生活を深める側に力をかけることこそが、変化への初期衝動になる、ということなのだろう。私自身さまざまな地域を見てきたなかで、どんな地域が変化を起こせているかでみると、それは本当に困ったことが起きた地域だと感じていた。これ以上減らないくらい人口が減ったり、街のシンボルが倒産したり、その地域に決定的なことが起こったからこそ、変化へのアクションを起きたケースがほとんどだ。だから「困っていない地域は変われない」と決めつけていっていた。でも、このセッションを聞いて思い直した。ボトムアップからの変容は、かならずしも崖っぷちの悲鳴からだけで生まれるわけではない。楽しさや、面白がりたいという欲、そして“自分の暮らしはこうであってほしい”という美しさへの執着。そういうポジティブで強い熱源からも、人は動き出せるはずだと。僕は、もうボトムアップ型のイベントにしか参加しないんです。このセッションに登壇していた福島県浪江町から参加の高橋大就(たかはし だいじゅ)さんとは、城山ホテルで行われた前夜祭でたまたま隣の席だった。[caption id="attachment_12150" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 外務省官僚からマッキンゼーを経て、福島第一原子力発電所に近い浪江町に移住をされた高橋さん〉[/caption]浪江町といえば、2011年の震災のあとに立入規制が敷かれた地域だ。震災前には21,000人いたという浪江町の人口は、規制解除後の現在では2,300人ほどになってしまったが、そこにはフロンティア精神を持った人たちが多く移住してきているのだという。悲劇が契機ではあるけれど、歴史を生きている感じがあって「ともに社会を一から作っている感覚が楽しい」と浪江町での生活を語る高橋さん。そんな彼に、薩摩会議に参加した理由を聞いた。「他のビジネスカンファレンスと違うと感じたからです。世の中にあるビジネスカンファレンスって、ほとんどがトップダウン型の構造じゃないですか。僕はそういうのはもう行かないって決めているですが、薩摩会議はボトムアップ型だと感じて。だから来ました」高橋さんのように「他は行かないけど薩摩会議だけにはくる」という声をよく聞いた。トップダウン型のカンファレンスとは、わかりやすく言えば“正解”を持っている(ことになっている)成功者が壇上に立ち、参加者がそれをメモし、「いい話聞けた」で帰るタイプの場である。そこでの主役は話者と主催者で、聴衆は基本的に「受け取る側」だ。いわば情報が上から下へ流れる構造だ。薩摩会議はそれと真逆をやろうとしている。主催者のSELFが「変革の中心点にはなりたくない」と明言し、むしろ現場を持っている人たちと、鹿児島という“土”の上に共に立ち、互いに横でつながらせようとする。ここでは、誰が一番強いかという序列づくりではなく、誰が本当に手を動かしているのか=どこに熱源があるのかを見ている。山形県から参加していたSHONAI代表の山中大介さんも、その「熱源側」の人だ。「地方の可能性を世界経済とつなぐ」をコンセプトに、水田地帯にホテル「スイデンテラス」を立ち上げるなど、観光・教育・農業・人材の事業を進める地方創生の代表プレイヤー最右翼の人物である。「他のカンファレンスは行かないけど、薩摩会議だけは出るって人は多いですよね。僕もその一人。最初はSELFの皆さんの熱量を感じて参加したんです。“150年後に何を残すか”って、なにかをうまくやりましょうって話とは全然違う。でも、ここまで大きなテーマ設定だと、ヒッピーみたいな生き方をするプレイヤーも、資本主義のど真ん中にいるプレイヤーも同じテーブルに座らせるようなもの。僕は、成長は究極の善だと思っている人間なんですが、ここには成長に対して一種のアレルギーを持つ人たちも集まってくる。だから正直なところ、参加後にもやもやして、来年は来なくていいやって思うんです。でも一年経つと、また来てしまう(笑)」そんな本音を漏らしてくれた山中さんが、DAY3のクロージングパーティの乾杯でこう投げかけた姿が印象的だった。「俺は、基本的にはこういうカンファレンスが大嫌いです。頭でっかちにメモとって、評論家みたいなこと言って、知った気になって、帰っていっていく。そういう人間は嫌いです。だから、どうか、どうか、薩摩会議にでている皆さんは、考えていることがあってようが間違っていようが、行動することです。行動して、ちょっとずつ戦い、一緒に未来を変えていきましょう。150年後の未来に、私たちは何を遺すのか。明日から、一歩一歩!乾杯!」[caption id="attachment_12161" align="alignnone" width="960"] 〈▲ DAY3のクロージングパーティで会場に「行動しよう」と投げかける山中大介さん(SHONAI)〉[/caption]不特定多数から、特定多数 あらわれの話DAY3の「文化資本 × Transformation」のセッションで強く印象に残った登壇者のひとりが、島根で「石見銀山 群言堂グループ」を率いる松場忠さんだ。松場さんは中学生の息子さんを連れて薩摩会議に来ていた。今回の参加は、彼への“誕生日プレゼント”なのだという。高校受験を前にして、世の中には教科書に載っていない仕事の仕方をしている大人がいること、変わった生き方をしている大人が存在することを見せたかった、と松場さんは言う。「薩摩会議は、九州っぽいおおらかさがあって、多少ラフなところも含めてあたたかい場だから、息子を連れてきても大丈夫だと思えたんですよね」(松場さん)実際、会場のあちこちに子どもの姿があった。聞くと、子どもにも当然同じ参加費が必要だとのことだが、親として“どんな大人を見せられるか”を真剣に考えている人たちが、ここに子どもを連れてきていたように感じた。松場忠さんの石見銀山 群言堂グループは、衣料品の製造販売や、宿泊、中長期滞在、滞在型シェアオフィスなどを展開している。拠点を置く石見銀山は、江戸時代には20万人が住んでいたと言われ、世界の1/3の銀を産出していたが、今は人口400人弱の小さな街だ。2007年の世界遺産登録で、オーバーツーリズムにも悩まされた。不特定多数の観光客による“消費”は、町の生活をすり減らす一方だった。そこで松場さんたちは、地域の暮らしそのものの価値を見に来る人たちと向き合う方向に舵を切り、「生活観光」という考え方を掲げている。観光を「名所を消費する行為」ではなく、「そこに根づく暮らしに触れる関係性」として再定義し、地域固有の生活が生む風景に価値を感じる“特定多数”づくりに取り組んでいる。[caption id="attachment_12151" align="alignnone" width="960"] (▲ 石見銀山 群言堂グループ代表 松場忠さん。クロージングパーティにて〉[/caption]彼が登壇したセッションで私が印象的だったのは、“現れ”という言葉を繰り返し使っていたこと。地域の文化や生業(なりわい)に根ざした暮らしの営みを、きちんとデザインし、ていねいに表に出していく。すると、その“現れ”がまちの風景として積み重なり、「ここはいい町ですね」と言われるようになる。そうすると、これまで当たり前すぎて価値を感じられなかった地元の人自身が「あ、これって本当はすごいことなんだ」と気づき、ふるまいが変わっていく。地元の人が“いい人”になっていく――そんなことを松場さんは語っていた。そして、このセッションで松場さんも使った「不特定多数から、特定多数へ」という言葉もさまざまなセッションで語られていたキーワードだった。大量集客を前提に、マス向けに価値を提供する“不特定多数”型の発想からできるものは、どこに行っても似た光景を生み出し、地域の固有性はすり減っていく。一方で「特定多数」というのは、価値観のばらつきを前提にしつつ、その場所で生きる人のスタイルや文化に深く共鳴する人たちとの関係を積み上げていく。つまり、誰でもいいわけではない。ただし、選民的になるためではなく、結果的にその土地の多様性や芯を守るために、受け止められる数・関係性の厚みを自分たちでデザインするということ。“現れ”をていねいに積み重ね、「特定多数」とちゃんと関係を結ぶことで、町の側にも、訪れる側にも、無理のない循環が生まれるのだろう。[caption id="attachment_12152" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「文化資本 × Transformation」のセッション。文化がテーマのセッションは2024年からはじまったそう〉[/caption]JT廣瀬理子さんの「大企業視点」の話。そしてファイナンスの話。薩摩会議では大企業からの参加者も少なくなかった。ボトムアップ型の薩摩会議に大企業の参加が増えるのは、大企業側にもこれまでのやり方では先がない危機感があるからだと思う。彼らの名刺には誰もが知る企業名に加えて、部署名に「地方創生」「共創」「SDGs」といった言葉が並んでいた。おそらく、“新しい部署”に配属された人が糸口を探しに来ているのだろう。DAY2で私が参加した阿久根セッションに大手旅行会社から参加していた女性は「今まで、企画書の紙の上と頭の中でしか見ていなかった自分に気がついた」と移動中のバスの中で正直に言っていたのが印象的だった。そうした「危機感」を、資本やファイナンスの言葉で語っていたのが、日本たばこ産業株式会社(JT)の廣瀬理子さんだ。彼女はJTのコーポレートR&amp;D組織であるD-LABに所属し、「心の豊かさ」をキーワードに、これからの豊かさの形や“新しいラグジュアリー”をテーマに、事業づくりや投資の可能性を探っているという。DAY3の「金融資本 × Transformation」のセッションでは、新田信行さん(ちいきん会)、樋浦直樹さん(READYFOR)、渡辺麗斗さん(ベータ・ベンチャーキャピタル)らとともに「これからは意思を持ったお金が増えていく」「日本は“共助のお金”をもっとふやさないといけない」といった議論を展開されていた。セッションの中で廣瀬さんは、大企業という巨大な器の中で、短期のリターンだけでは割り切れない投資や関わりをどう正当化し、どう続けるのかという難しさにも触れていた。私自身も組織にいながら地域と向き合おうとしている立場として、その言葉にはとても強い興味と共感を持って耳を傾けた。[caption id="attachment_12162" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 右から二番目が廣瀬理子さん / 「金融資本 × Transformation」のセッション〉[/caption]クロージングパーティで、廣瀬さんに改めて話を聞いた。「昨今語られる未来の諸問題をダイレクトに感じられるローカル企業の人達の悩みや苦しみは、東京にいるだけだと絶対にわかりません。やっと事業が成長したと思っても、人口減少やインフラの老朽化、外資の介入など様々な外圧が目先に来てしまう。それぞれの企業単体では乗り越えられないから、地域で連携しないといけない。薩摩会議にいる人たちは、いわば“土の人”。薩摩の土で生きている人たちが連帯しながら、地域の外から関わる“風の人”と一緒に乗り越えていこうとしているようにも見えて、すごく印象的でした。あるセッションで、地方企業は100億円を目指さないと意味がないという話があって。私はそこが問題ではないと思うのでそれには『否』の立場ですが、一方で、いまの日本でお金をどこにどう流すべきかを、真剣に考え直さないといけない局面に来ているとも思っています。大企業の側も同じ日本に生きているわけで、当たり前ですが、自然や人の暮らしがあって企業活動をしています。単に成長産業に投資をしてなるべく速く大きく回収する、っていう視座のゲームじゃもう済まない。そうではないお金の流れを、自分たちがどう作るべきかを本気で考えないといけない。それは、薩摩会議にいる、薩摩にいる人たちに教えてもらった感覚でした」この「大企業は何をすべきかを、もう一回本気で問い直さないといけない」という感触は、ここ10年の文脈ともつながっている。いわゆる「地方創生」は2014年に政府が「まち・ひと・しごと創生本部」を立ち上げ、人口減少と地域衰退への対抗策として国ぐるみで打ち出された政策領域になったことで、一気に“国策”になった。その流れの中で、大企業が地域に入るケースは確実に増えたが、その一方で「東京側の論理」で進めた地域連携は、地域の想いや実態と噛み合わずに終わったり、地元の人の時間と負担だけを奪って消える、という風景も山ほど生んだ。大企業側も自分たちの論理で進める「地方創生」が、地域のためになっていないことに気が付き始めている。廣瀬さんが語っていたのは、資本の話以上に責任の話だった。資本はどこに流すのか。そのお金は何年先を見ているのか。それは本当にその土地の暮らしと未来を支えるのか。そこに、大企業が引き受けるべき役割があるのではないか、という問いである。そんな話を廣瀬さんとしていると、DAY3のクロージングセッションでの「歌」の話になった。中野民夫さんの自作の歌を、参加者全員で歌うという時間があったのだ。いわゆるビジネスカンファレンスのラストで、全員が肩を並べて歌う。それは東京のカンファレンスではまず起こらない風景だと廣瀬さんは力を込める。「顕著だったのは、最後の歌を歌うところ。私もずっと東京の会社にいるけど、あれは東京のカンファレンスだと絶対しないですよね。絶対やらない。でも私、なんだか涙が止まらなくなっちゃって。隣に立っている人も、自分も、生きていると感じられる場の力を信じている。こういうことだなって思っちゃったんです」[caption id="attachment_12164" align="alignnone" width="960"] 〈▲ クロージングセッションで、自作曲「日はめぐり いのちAlive」を会場と歌う中野民夫さん〉[/caption]鹿児島の人がいないんじゃないか?薩摩会議は回を重ねるごとに注目度が上がっている。県外からの参加者が非常に多い一方、「鹿児島の人はあまりいない」という声も耳にする。運営側はそのことをどう受け止めているのか。立ち上げから中心メンバーとして関わってきたSELFの古川理沙さんに、クロージング後のタイミングで聞いた。「今、SELFのみんなの、本当に寝ずに頑張ったみんなの顔を見ていると、やれてよかったって思っています。年々、期待が高まっていることはひしひしと感じるなかで、去年の焼き増しみたいになっちゃったらやる意味ないって思ってやってきて。前夜祭の締めの挨拶で古田秘馬さん(株式会社umari代表)が『同窓会みたいになって、仲良しこよしになっちゃわないように、俺達はちゃんと議論しようぜ』って言ってくれて。変な馴れ合いでもなく、初めて来てくれた方たちとも変な境界線はなく、常連だけのバーに新規の客が入りづらいみたいな感じにもならなかったんじゃないかと思えているので、まずはホッとしています」[caption id="attachment_12153" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 薩摩会議2025を終えて、ホッとしているという古川理沙さん〉[/caption]インタビュー中、古川さんが繰り返していたのが「やる意味」という言葉だ。なぜここまでやるのか、と聞くと、彼女はかなりはっきりした基準を示した。「SELFが薩摩会議をやるって4年前に決めたときに、こんなにお金も自分たちで出して、仕事に割くべき時間も注ぎ込んで、人脈も信頼も注ぎ込んでやるんだったら、“鹿児島じゃなくてもできること”“私たちじゃなくてもできること”はしないって決めているんです。だから、自分たちが自分たちらしく作れるものをやるっていうのが“やる意味”。60,000円のチケットを買って、飛行機や新幹線で来てくれるお客さんのことはもちろん考えているけど、結局は自分たちのためにならないと、来年、再来年に続けていけないんですよ」つまり、薩摩会議は「誰かのためのイベント」をやっているのではなく、「自分たちが本気で必要だと思う場」を開いていて、その場に共鳴する人が全国から集まってきている、という順序だ。参加者を“お客さん”と想定するよりも、同じ土俵に立つ仲間として迎えようとする姿勢が、場のトーンを決めている。そのスタンスは「鹿児島の人が少ないのでは?」という問いに対してもブレていない。「鹿児島の人には、やっぱりもっと来てほしいんです」と古川さんは言う。「でも、“鹿児島の人なら誰でもいいから増やしたい”という考えではない。私たちは自分たちの半径何キロかの中で、150年後の未来とか、今日これからの暮らしをつくっていこうとしています。そのときに、ここで盛り上がっているメンバーだけで変革は起こせません。もっといろんな人たちと仲間としてつながっていく必要があるし、『ここでこういうことが起きている』と知ってくれる地元の人は増えてくれたほうが、確実に変革の力になる。だから鹿児島の人には、もっと知ってもらいたいと思っています」“鹿児島の人を増やすべきだ”という外からの正論に対して、“誰でもいいから数を増やす”とは返さない。あくまで「仲間として入ってくれる人とちゃんとつながりたい」という言葉に置き換えている。不特定多数ではなく、特定多数ということだ。増やしたいのは「数」ではなく「濃度」だ、と話すのがSELF代表理事の野崎恭平さん。野崎さんは今回、クオリティーズに「取材に来ませんか」と声をかけてくれた当人でもある。[caption id="attachment_12163" align="alignnone" width="960"] 〈▲オープニングで、薩摩会議の課題意識の原点となる『U理論』の話をする野崎恭平さん〉[/caption]「取材に来ていただいておきながら逆説的な話になるんですけど、僕は参加者を増やしたいとは思っていないんです。去年から今年にかけて、『薩摩会議すごくいいって聞いたから次は絶対行く』って全国のあちこちで言ってもらえた。それはすごく嬉しかった。でも、そうやって“評判がいいらしいから来る”“一回行っておきたいから来る”っていう人が増えると、この場は今みたいにはならないと感じていて。増えるとしても、この濃度のまま増えたい、とすごく思っています」(野崎さん)「濃度」という言葉は、薩摩会議のあちこちで聞いたキーワードだ。ここでいう濃度とは、偉い人が集まるとか、有名人が揃うとか、SNSでバズるとか、そういうわかりやすい外向きの強度のことではない。むしろ逆だ。野崎さんは、DAY3のクロージングパーティで山中大介さんが乾杯の挨拶で言った「ここは“やっている奴ら”の集まりであるべきだ」という言葉を引き合いに出した。つまり「評論家になって帰っていく場」にはしたくない、という宣言だ。「一般的なカンファレンスって、名刺交換して『いい話聞けました』で終わる場が多いじゃないですか。僕はそういう場があまり好きじゃないんです」と語った野崎さんの言葉は、さらに熱を帯びていく。「薩摩会議やSELFの良さだと思っているのは、ふだんはこういう場に絶対出てこないような人たちがかなり多いこと。それこそが価値なんです。というのも、SELF自体が、そもそも“こういう集いは嫌いだ”っていう人たちの集まり。だから中心点をつくらないようにしているんです。誰か一人の主役とか、ムーブメントの顔みたいなものを置きたくない。できるだけ多くの人の出番があったほうがいいし、そのほうが自分もうれしいです」[caption id="attachment_12166" align="alignnone" width="960"] 〈▲クロージングでステージに上ったSELFの運営メンバーのみなさん〉[/caption]「中心点をつくらない」が、この薩摩会議の根っこだったのだなと思った。多くのカンファレンスは、わかりやすい「旗」と「象徴人物」を立て、その下に人を集める構造をとる。薩摩会議はそれをやらないと言っている。むしろ、主催側が前に出すぎないことこそが、この場の在り方だと明言している。それはきれいごとではない。場の“濃度”を保ったまま続けるための、かなり具体的で現実的な運営判断でもあるのだろう。人数を単純に増やしていくと、熱は希釈され、ただの“お祭り”になってしまう。その未来は、薩摩会議は望んでいない。この会議は、どこかの誰かのイベントではない。鹿児島という“土の上”に立つ人たちが、自分たちのために始め、それに共鳴する人を招き入れている。その強度を「濃度」と彼らは呼んでいる。薩摩会議が来年以降どう続くのか、どこまで開くのかは、この“濃度”をどこまで守りながら拡張できるかという勝負になるはずだ。最後に。東京発で「地方創生」という波に乗ってやってくる大きな力を持つプレイヤーと現地には“埋まらない差”がある。それは、その地の土を踏みしめ続け、海と向き合って生き、手足を動かし、生活や文化を作ってきた人々の身体に埋め込まれたDNAを持つものと、その恵みを編集して消費するものとの違いだ。一人の人間として鹿児島の大地に立ち、そこに生きる人々の姿を感じて心が動かない日本人もいないと信じたいが、一方で、自然と共生し、享受したその恵みを消費地に売って得てきたことが、今、自分たちの足元に何を残したかを見て呆然としているのがローカルの現実でもある。消費地である大都市と、生産地である地方。トップダウン型とボトムアップ型。都市計画とまちづくり。こういった二項対立は起こるが、それをずっと続けている場合ではない。対立を対話で超えて、その交わりが生まれ始めなければならない。そのためには、両者の間に立つ翻訳者や編集者が必要だという話があった。DAY3の「公共デザイン × Transformation」で、大阪・関西万博のデザインシステムを手掛けた引地耕太さん(株式会社 VISIONs)は、東京オリンピックでの建築家やクリエイターのアウトプットと世論とのぶつかりから起こった不幸な出来事を踏まえて、大阪・関西万博で「共創」を掲げてやってきたという。カタチをつくる人と情報をつくる人が同じであるならそれが理想だが、カタチをつくる人が情報を作ることも得意な訳では無い。だからこそ、社会に伝わる情報を編む ”編集者” の存在が大切で、そこにコストをかける意識が重要だと語っていた。また、同じセッションでは森田秀之さん(株式会社まなびの種)はこう言っていた。「皆さん、パブリックの対義語はプライベートで、コモンはその間にあると思われているが、私はパブリックの正反対がコモンだと考えている。パブリック↔プライベート→コモンで、コモンはプライベートの先にある。つまりプライベートなことを叶えるために、コモンで仲間と手を取りあってやっていくという。コモンは非常に個人的なことの延長なんじゃないかと。一方、パブリックっていうのは誰でもいいよっていうこと。だからパブリックとコモンは反対なんです」二項対立の構図が引き起こす課題を経て、その両者を知る翻訳者や編集者を作用させる”知られる努力”も必要だし、不特定多数を捉えて大きな経済を作りそれを原資にして、遺すべきものを改めて大事にする“特定多数”による行動を起こしていくことも必要だ。私たちはグローバル資本主義経済から逃れられない。特に大企業はその支配下にある。そういう組織で働いている時、関わる時に、人として違和感を感じた経験はきっと誰にでもある。それを放っておかずにいようと思える人々が、ここに集まっているのではないかと感じた。たくさんのお金を集められる経済資本力は諦めずに育てながら、自然資本・社会関係資本も育て評価する視点を持てる仲間を作ろう。それをそれぞれの持ち場でやろうぜ、と私には聞こえた。遠くから薩摩会議まで足を運ぶ多くの人々が、その土地で生きる人々の営みを現地で見て、感じ、話すことからしか得られないものを求めてきている。これは「AIに聞けばなんでも分かる」へのアンチテーゼであり、“身体性”というキーワードにつながる。身体性を持たざる人々が、中央やグローバルの経済論理で起こすことのしわ寄せを、地方が引き受ける構図にストップをかけたい。そのためには地域側も“ゆでガエル”になっている場合ではない。強い流れに抗い、作りたい未来を信じ、行動する特定多数の人々が濃度高く集まり、対話をすることが未来を作ると信じて、動こう。最後に、鹿児島には地域特有の締めがないということで、私がDAY2で参加した阿久根エリアで、いわしの丸干しをアップデートさせながら産業を守り、そしてまちづくりにも奔走する下園正博さん(下園薩男商店)と、古田秘馬さんと開発した「いわし一本締め」をここに記録します。「はい!いわし!(ぱちん)」&nbsp;]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[街になぜクリエイターが必要か 街とカルチャーを編むデザイナー・後藤修が、いま宮崎の地で考えていること]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/gotohosamu</link>
    <pubDate>Tue, 28 Oct 2025 21:00:46 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[「うちの街には何もないからさ」日本の地方都市の至るところで、長い間、常套句のように使われてきたこの言葉を、ここ宮崎市では最近あまり聞かなくなったように思う。なぜなら、宮崎市の中心部、かつては賑わいを失いかけ、郊外の大型商業施設に街の重心が移っていたこのエリアに、近年、少しずつ変化の兆しが見え始めているからだ。その変化の象徴とも言えるのが、2025年の春に開業した複合施設「HAROW」である。かつてNTT西日本宮崎支店のあった建物をリノベーションして生まれ変わったこの場所は、街の真ん中に新たな賑わいを灯す存在となっている。その企画・運営の中心人物であり、デザイナーでもある後藤修さんは、東京でのキャリアを経て、この宮崎の地で新たな挑戦を続けている。今回は「宮崎とカルチャー」をテーマに、後藤さんがデザイナーとして、そして地域プレイヤーとして、宮崎という土地でどのような活動を展開し、何を見出しているのか。その背景にある思いや、地域に根差したクリエイティブとカルチャーの可能性を、後藤さんの言葉を通して深掘りしていく。[プロフィール name="後藤修" message="ごとう・おさむ/ 1972年、千葉県松戸市生まれ。Canek Inc.代表として広告のデザインやロゴの制作などを手がける。2006年に宮崎に移住。2012年から、zineを集めたブックイベント「Zine it!」を主催。2015年から「AOSHIMA BEACH PARK」のアートディレクターを担う。2018年、宮崎中心市街地の公共空間活用事業「街中ピクニート」を主催。ブラジリアン柔術黒帯で、ブラジリアン柔術道場のバッファロー柔術を市内で主宰している。"]千葉から宮崎へ デザインとの出会いと「地域」への眼差し[caption id="attachment_12124" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 実は海外でバンドをしていた経験のある後藤さん。某超有名ロックバンドともゆかりのあるレーベルにいたのだとか〉[/caption]後藤さんのルーツは、東京近郊の千葉県松戸市にある。18歳で地元を離れ、東京のさまざまな街で音楽活動をしながら、デザインの世界へと足を踏み入れた。海外でのバンド活動や、大好きなプロレスの映像制作会社での経験を経て、デザイナーとしてのキャリアを歩み始める。しかし、東京でのデザインワークは、彼に一つの違和感をもたらしていたという。「東京での仕事は、どうしてもパーツ化されがちだったんです。クライアントが何に困っていて、僕のデザインがどう使われ、どういう価値を生み出しているのかが見えにくい。もっと、企画の最初から最後まで、全体に関われるような仕事がしたい、という思いがずっとありました」そんな折、妻の地元である宮崎への移住を決意する。それは、デザインの仕事のあり方そのものを見つめ直す、大きな転換点だった。「正直、宮崎に来るまでは、九州のどこかもよく分かっていませんでした。でも、東京のように分業化されず、もっと全体に関われる仕事があるんじゃないか、という期待があったんです。実は友人が住んでいたサンフランシスコも候補にはあったんですが……妻の地元である宮崎を選んだのは、やはり縁ですね」しかし、期待に胸を膨らませて宮崎にやってきたものの、現実は甘くなかったと、後藤さんは振り返る。特に、デザインという仕事で地域に根差すことの難しさを、すぐに実感することになる。「宮崎のデザインシーンは当時、わずかな限られたルートを経由しない限り、なかなか仕事につながらない構造があったんです。一生懸命実績を作って賞を取っても、それが直接仕事に結びつくわけではない。むしろ、実績を作れば作るほど、『この人はこの商材で賞を受賞した。だから同じ商材の仕事しかしないだろう』と限定されてしまうような感覚もありました。受賞しても、それが自分ではない人の手柄になってしまうこともあったり。宮崎の中で、クリエイターという職業の地位は、正直、低かったと感じます」デザインの仕事の「パーツ」ではなく、全体像に関わりたい。そんな思いで宮崎にやってきた後藤さんだったが、その理想と現実の間には、大きなギャップがあった。それは、彼が「10年間のくすぶり時代」と語る、長く厳しい道のりの始まりでもあった。10年間の「くすぶり」と、そこで生まれた「Zine it!」宮崎に移住してからの最初の10年間は、後藤さんにとって「くすぶり時代」と呼べるほど、苦難の時期だったという。デザイナーとしての実績を積む傍ら、地域に根差した活動の糸口を探る日々。しかし、前述したような地域特有の構造や、クリエイターとしての立ち位置の低さから、理想とする仕事はなかなか実現しなかった。「正直、宮崎の仕事だけで食べていくのは難しかったです。だから、最初の10年は、東京の仕事をやりながら、どうにか宮崎で自分のやりたいことを見つけようとしていました。ただ、当時は家畜伝染病の口蹄疫の流行があったりと、宮崎の地域経済が非常に厳しい時期。クリエイティブの力でPRする仕事がしたいと思っても、コンテンツ自体がほとんどなかったんです」加えて、当時の宮崎のカルチャーシーンがまだ成熟していなかったことも、後藤さんの「くすぶり」を長引かせる要因となった。もちろん、工芸や音楽など、それぞれの分野で真摯に活動する人たちはいたが、それぞれのカルチャーが交わらず、「縦割りになっていた」と後藤さんは振り返る。「たとえばストリートの世界であれば、スケーターはスケボーを楽しむだけじゃなくて、その周辺にある音楽だったり、ファッションだったり、違うジャンルの隣接するカルチャーも楽しめますよね。でも、宮崎の街はどこを歩いても流れているのは歌謡曲。みんなが聴いているのは、わかりやすい流行ソングばかりで……なんだか、立体的なカルチャーの楽しみ方が育まれていなかったように思います」ファッションや音楽、アートが混ざり合い、新しい文化が生まれる――そんな立体的なカルチャー構造は、どうしたらこの街でも育まれるのか。デザイナーとして自分がどこまでコミットできるのか。そう考えた後藤さんが、地域とのつながりを深め、カルチャーの萌芽を期待して始めたのが、「Zine it!」というイベントだった。zineというのは、もともと海外のパンクシーンなどで、手作りの小冊子として広まった文化である。「当時はまだzineブームの第1波。今では多様なzineが世に溢れていますが、その頃のzineが担っていたのは、スケーターがおすすめのスポットを書いたり、バンドがライブ情報や歌詞を載せたり、そんな役割でした。それを宮崎でもやってみたら面白いんじゃないか、というのが始まりで、みんなが各々で作ったzineを持ち寄るイベントをすることにしたんです」2012年当時、宮崎の中心市街地は、郊外の大型商業施設の台頭により、かつての賑わいを失いかけていた。商店街には空き店舗が目立ち、街全体のムードは停滞気味だったという。そんな状況下で、「僕らが考えるものを発信するzineを並べてみよう」と「Zine it!」をスタートさせた。[caption id="attachment_12127" align="alignnone" width="960"] 〈▲ インタビュー会場となった「HAROW」に出店している「ZINE it! BOOKS」は、イベント「Zine it!」から派生して生まれたzineを置く常設店舗。店内には、個人が契約する複数の本棚を用意し、契約者がその棚に自身のzineなどを置くことができる〉[/caption]このとき後藤さんが大切にしたのは、zineの“つくり手”を誰にするのか、という点。ただ「編集やデザインが巧い人」ではなく、宮崎という街そのものを形づくっているプレイヤーたちが関わってくれなければ、街に散らばる感性を編集し、可視化する場にはならないと考えた。「首都圏なら、デザイナーやアーティストを呼んで、洗練されたアートブックを作るというアプローチも成立するでしょう。でも、宮崎ではそれでは響かないと思ったんです。だから、バンドをやっている子、サーフィンをやっている人たちに、『好きに書いてみて』と声をかけた。そうしたら、予想以上に面白いものが集まってきたんです」「Zine it!」には、後藤さんが想像していた以上に、宮崎ならではの、よりラディカルで、地域に根差した表現が息づいていた。これが、後藤さんが「宮崎のzineは、他の地域と違うね」と言われる所以となった。それは、デザインという枠を超え、地域の人々が自らの言葉で表現する場を創り出したことの証だったのだ。「AOSHIMA BEACH PARK」で再認識した「ディレクション」の重要性後藤さんの地域における活動は、「Zine it!」だけにとどまらない。11年前に始まった宮崎市の青島を舞台にした「AOSHIMA BEACH PARK」プロジェクトは、宮崎における公民連携の成功事例として、今も語り継がれている。後藤さんはこのプロジェクトでアートディレクションを担った。「AOSHIMA BEACH PARKに携わることで、『ディレクション』という概念の重要性を再認識させられました。それまで自分は、デザインとは物を作って納品する仕事だと思っていたんです。でも、ディレクションというのは、単にデザインを作るだけでなく、それがどのように受け取られ、地域にどういう影響を与えるのか、さらに言えば『何を“作るべきではない”か』ということまで含めて考えることなんだと気付かされました」「AOSHIMA BEACH PARK」では、関係者らと単に施設を作るだけでなく、そのエリア全体の雰囲気や、訪れる人々がどう感じるかまでをデザイン。「このエリアにどんなゴミ箱が合うか」「どんな小さなサインが効果的か」といった、細部にまでこだわった議論を重ねた。「AOSHIMA BEACH PARKは、地域の人々がその場所をどう活用していくか、という点にゴールが設定されていました。だからこそ、単なる箱物で終わらず、地域に根差した文化が育まれていったのだと思います」ディレクションとは成果物を統括することではなく、“人と場と意志”を結び直すこと。この経験を経て、その思想をより一層意識するようになった彼はその後、地域への関わり方をさらに深めていく。そして、街の新たな利活用法を模索する社会実験イベント「街中ピクニート」へとつながっていく。「コロナ禍で街中が沈んでいた時期、公園の手入れも行き届かなくなっていました。この場所をみんなが使うようになれば、もっと手入れされるようになるんじゃないか。そんな思いから、まずは公園の利活用を始めることになったんです」「街中ピクニート」では、後藤さんらは通行量調査やアンケートを用いて人の動きや滞留の傾向を1年間かけてリサーチ。そのうえで、導き出された“市民が使いたくなる場”として、街中での週末イベントなどに発展させていった。また、ここで浮かび上がったリサーチ結果が、行政が街なかを回遊できるグリーンスローモビリティ「ぐるっぴー」を走らせるきっかけにもなり、後藤さんは「ぐるっぴー」のプロジェクトにデザイナーとしても携わっている。「行政の人が『こういうものが必要だ』と考えるだけでなく、僕たちのような民間が、地域の人々のニーズを汲み取りながら、具体的なアイデアを提案していく。あと、プロジェクトのゴールを数字にせず、そこから何が生まれるか、どう派生できるかに重きをおく。そういう、公民連携の新しい形がそこにはあったと思います。また、『AOSHIMA BEACH PARK』や『街中ピクニート』の流れで民間のクリエイティブチームが直接行政とやり取りするケースが生まれたのも大きかったです」地域における『デザイン』や『クリエイティブ』の地位を向上させていくことの重要性を痛感した後藤さん。そして、それは「HAROW」という複合施設へとつながっていく。福祉につながる種が集まる表現の場「HAROW」[caption id="attachment_12122" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「HAROW」に出店するのは、どこも宮崎の街の小さなお店ばかり。大手資本が出す店はないが、それゆえに世界中のどこにもない、宮崎らしい商業施設となっている〉 [/caption]「HAROW」は、NTTの担当者が元々「街中ピクニート」の活動を知っていたことから後藤さんに声がかかり、開業に至るまで街の人々を交えた意見交換を行いながら「こんな場所にしよう」と、一歩一歩進めていったという背景がある。だからこそ「HAROW」は、単なる商業施設ではなく、後藤さんが長年温めてきた、「地域におけるクリエイティブな活動の拠点」としての想いが詰まった場所なのだ。宮崎の街が、かつての賑わいを取り戻しつつある今、後藤さんは「HAROW」を通じて、どのような未来を描いているのだろうか。 「『HAROW』では、まず『表現の場』としての機能が重要だと考えています。音楽、アート、デザイン、あるいはそれらを組み合わせた新しい表現。ここでは、誰もが気軽に自分のやりたいことを発信できる、そんな場所であってほしいんです。だからこそ、『HAROW』にある『ZINE it! BOOKS』の戸棚も、自分のいらない本を売っているのではなく『自分はこういうことが好きだ』という知識のオシャレをして、棚を作ってるんです」[caption id="attachment_12129" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「ZINE it! BOOKS」で貸し出す棚は、開店後あっという間に契約者で“満室”になった〉[/caption]未完成でもいい。失敗してもいい。それでも、自分が作ったものを発表するステージがあるだけで、きっとそこから生まれるものがある。後藤さんは「自分自身が、プロのデザイナーからデザインを習っていない“野良”であるというコンプレックスはある。でも、だからこそ、世の中に自分が作るものを発表したいという街の人の思いをすくえる場所を作りたかった」と話す。また、後藤さんはこども食堂支援などの活動で知られる社会活動家・湯浅誠氏との対談をきっかけに、街における「小さな縁」やつながりの重要性を感じているという。「都会のように大規模な開発やイベントは難しく、一方、小規模で街単体でブランディングできるほどでもない宮崎のようなサイズの地方都市では、自分は何かに影響されることも、何者かになることも難しい。そんな街で、ここ『HAROW』で開かれるようなイベントで生まれる『小さな縁』が、もしかしたら住人にとってのセーフティネットになるかもしれません。表現したいけれど、その『場』がない、という人がたくさんいるはず。そういった人たちに、『HAROW』が、発表できるステージや、仲間とつながり『小さな縁』を育める場所を提供できればと考えています」地域をもっとクリエイターが活躍できる場所にするために後藤さんがデザイナーとして、そして地域のプレイヤーとして、常に意識しているのが「宮崎らしさ」をどうデザインに落とし込むか、という点だ。「東京には東京のデザインがあるように、宮崎には宮崎のデザインがあるはずなんです。たとえば、この『HAROW』のロゴも、東京の洗練されたデザインをそのまま持ち込んでも、おそらく宮崎の人には響かない。むしろ、少し『宮崎っぽい』、あるいは『南国らしい』、少し『野暮ったい』くらいの方が、逆に面白がってもらえるんじゃないかと思ったんです。手書きの要素を強くしたり、あえて無駄を残したり」「宮崎っぽさ」をデザインに活かすことで、地域の人々が親近感を持ち、自分たちの場所だと感じてほしいという思いが、ここ「HAROW」の空間にも散りばめられている。そして、後藤さんが宮崎に来てから約20年。地域におけるクリエイティブな活動や、街づくりへの関心は、少しずつ高まってきているように感じるという。しかし、後藤さんは、まだ「本質的な変化」には至っていないとも感じている。「一番必要だと感じているのは、『お金を稼げるクリエイター』を宮崎から輩出することです。音楽でも、デザインでも、地域に居ながらにして、ちゃんと生計を立てられる人が増えてほしい。それが、カルチャーが本当に根付いたと言える状態だと思うんです」インターネットの普及や、ローカリズムへの関心の高まりは、追い風となっている。しかし、地域における「発表の場」の少なさは、依然として課題だと後藤さんは語る。「『HAROW』のような場所を拠点に、もっと多様な表現の場が生まれてほしい。そして、行政の側も、クリエイターとの連携をより柔軟に捉え、『宮崎にいるクリエイター』を、単なる『制作物』の提供者としてではなく、街づくりのパートナーとして、もっと対等に扱ってくれるようになること。それが、地域におけるクリエイティブの地位向上につながると信じています」後藤さんは、宮崎市役所には、柔軟な発想を持つ職員も増えてきていると感じているという。彼らと、地域住民やクリエイターが、よりフラットな立場で対話できる場を、今後さらに増やしていくことが重要だと考えている。 「『AOSHIMA BEACH PARK』の成功は、行政と民間が、それぞれの得意分野を活かし、対等な立場で協力できたからこそだと思います。今後、新しい街づくりや開発が進む中で、宮崎の地元の人々が、常にその議論のテーブルに着けるような仕組みを作っていきたい。そして、『HAROW』のような場所が、そうした対話を生み出すための触媒となれば嬉しいですね」後藤さんの挑戦は、宮崎という土地で、「カルチャー」をどのように育み、そしてそれがどのように地域を豊かにしていくのか、その可能性を静かに、しかし力強く示している。撮影:飯田健太郎&nbsp;&nbsp;※※※※最後に、〈ウェルビーイング みつめる、みつかる。〉を掲げるメディアとして、後藤さんに「私にとっての幸せな状態」について聞いてみると、「必要とされる場面が増えたこと」と返ってきた。「街にいると誰かしらに会えて、気軽に相談してくれる。それは時には小さい子どもからのものだったりもして。自分が求められているんだって感じる時は、幸せというか、やっぱり楽しいですよね」街になぜクリエイターが必要か 街とカルチャーを編むデザイナー・後藤修が、いま宮崎の地で考えていること]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[【10/2東京開催】福岡で働く・暮らすリアル相談会 “いつか”を前に進めよう]]></title>
    <link>https://qualities.jp/offer/article/20251002event</link>
    <pubDate>Thu, 11 Sep 2025 00:28:24 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[「いつかは福岡に帰りたい」「九州で働いてみたい」「暮らしを変えてみたい」――そんな想いを持つ方に向けたイベントを東京・京橋で開催します。移住や転職は気になっていても、なかなかきっかけが見つからない、実際の生活がイメージできない、と迷う声をよく耳にします。そこで株式会社ドーガンが、“福岡のいま”を知り、将来を考えるヒントが得られる場をご用意しました。福岡で実際に働く人・暮らす人のリアルな声を聞きながら、少人数のグループトークでざっくばらんに相談できる機会です。一口にU/Iターン相談といっても、参加者にとって聞きたいことは「転職」「移住」「生活」と人それぞれのはず。だからこそ、一方的な情報提供ではなく、参加者同士・先輩移住者とのフラットな交流ができるようなイベントになっています。イベント後は、近隣の飲食店でもつ鍋を囲む懇親会も予定。もう少し深く話してみたい方は、ぜひこちらにもご参加ください。＼こんな方におすすめ/✓  福岡の“いま”を知りたい方✓  実際に働く人の声を聞いてみたい方✓  移住後の生活を具体的にイメージしたい方✓  九州・福岡へのUターンやIターンを考えている方✓ 将来の選択肢として福岡を検討している方&nbsp;なお、当日ご参加が難しい方も、九州の企業情報やキャリアに関する最新情報をお届けするメルマガをご用意しています。画面右下の「ENTRY」ボタンからお気軽にご登録ください。 【イベント詳細】日時:2025年10月2日(木)19:00〜20:00  (開場18:30)会場:DIAGONAL RUN TOKYO(東京都中央区京橋2丁目13-10 京橋MIDビル 4階)※終了次第、近隣の飲食店に移動し懇親会を実施定員:20名参加費:無料、懇親会のみ会費制その他:途中参加・退出OK/服装自由※定員を超える応募があった場合には抽選とさせていただく場合がございます。【タイムテーブル(予定)】18:30〜 受付開始19:00〜 イベント開始(トークセッション、グループ座談会)20:30〜 近隣の飲食店に移動し懇親会開始※懇親会の詳細は応募フォームをご確認ください。]]></description>
          </item>
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    <title><![CDATA[knowledge.に吹く風〈後編〉「おいしい」が生まれる場所、料理人と生産者に会いにゆく]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/knowledge-2</link>
    <pubDate>Mon, 08 Sep 2025 21:00:26 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[熊本県玉名市・菊池川の河川敷を会場に、2023年より毎年11月に開催される「knowledge.(ノウレッジ)」。普段は草地が広がるだけの原っぱに、九州各地から料理人と生産者が集まり、一日だけの豊かな食の広場が現れる。この場に込められた想いの原点である「玉名牧場」を訪ねたのが「knowledge.に吹く風〈前編〉」。後編では、knowledge.が紡ぐ“料理人と生産者の関係”を深く知るべく、2つの出店者のもとを訪ねることにした。2024年、2回目の開催となった「knowledge.(ノウレッジ)」。開場と同時に来場者が散らばる中、最初に列ができ始めるのは、普段コース料理しか出していないお店がこの日のために考案するスペシャルメニューや、遠方から出店する店の一度は食べてみたかったあの味。あいにくの小雨が降られながらも、おいしい料理を待つ人々からは、静かな熱気が漂っている。[caption id="attachment_11998" align="alignnone" width="960"] 〈▲▼開場と同時に、お目当ての出店に次々と列をつくる来場者たち。料理人からはうれしい悲鳴が上がる〉[/caption]ふと目に留まったのは、鍋の中から湯気を立てる、ベトナムの麺料理「フォー・ボー」(牛肉のフォー)。一口すすると、滋味深いスープが小雨で冷えた体をやさしくほぐしてくれる。メニューには、「玉名牧場の仔牛から丁寧にスープをとりました」と添えられていた。提供するのは、熊本市内のフォーの店「タイム」。初出店ながら、玉名牧場とのコラボメニューを自ら提案し、この日だけの特別な一杯を生み出したknowledge.注目のニューカマーだ。[caption id="attachment_11949" align="alignnone" width="960"] 〈▲第二回knowledge(2024年)に初出店したタイム。左から、タイム店主の山下淳平さんと裕美さん〉[/caption]さらにこの日、フォーのトッピングに使われていたのは、同じくknowledge.に出店している農家「Chandra en Chandino(チャンドラ エ チャンディーノ)」のハーブ。こちらは、2023年の初回から出店しているお馴染みの顔。チャンドラのハーブや野菜は、タイムの他にも、knowledge.に出店する料理人たちのご用達として頼りにされている。料理人と生産者が食を通して手を取り合うknowledge.では、開催中に食材を切らしてしまった料理人が、向かいの生産者のもとに仕入れに行く、なんて風景もよくあること。[caption id="attachment_11950" align="alignnone" width="960"] 〈▲Chandra en Chandinoの遠藤由佳さんは、第一回目(2023年)からknowledge.に参加〉[/caption]knowledge.での生産者と料理人の関係性を少しのぞいたところで、今回訪ねるのは、フォーの店「タイム」と、農家「Chandra en Chandino」。それぞれ、料理人として、生産者として、食に向き合う姿勢とその想いの源泉にふれながら、knowledge.に吹き始めた風を追う。今あるものの中から生み出す自由熊本市東部、清らかに揺れる水面と豊かな自然に囲まれる江津湖方面へ。タイムを目指して車を走らせていると、到着までもう少しというところで「熊本市動植物園」と大きく書かれたゲートをくぐることになる。「間違って動物園に入っちゃったかと思った」というのは、ここではもうお決まりのジョーク。「ほんの数日前に、赤ちゃんキリンが生まれたんですよ」と教えてくれたのは、店主の山下淳平さんとともに店を切り盛りする裕美さん。景色のいい店はよくあっても、キリンが見える店というのは珍しい。でも、タイムにはそれがよく似合う。どんな人もどんな命も、まるっとやさしく「いらっしゃい」と迎えて入れてくれる。まるであの日の、仔牛のスープのような空気がお店の中いっぱいに満ちている。[caption id="attachment_11971" align="alignnone" width="960"] 〈▲厨房の設備の設置や客席の内装まで、ほとんどを自らDIYで作り上げた店内。様々な国の色を感じながら、どこかほっと落ち着く雰囲気〉[/caption][caption id="attachment_12014" align="alignnone" width="960"] 〈▲山下淳平さん。大学卒業後、ワーキングホリデーの制度を使って2年間オーストラリアで過ごした後、外壁施工の仕事などを経験。2019年に多国籍料理の店「タイム」を開店〉[/caption][caption id="attachment_12015" align="alignnone" width="960"] 〈▲山下裕美さん。飲食店を営む前は、お花屋さんに勤務。1店舗目から淳平さんとともに店に立っている〉[/caption]淳平さんと裕美さんがお店をはじめたのは、2019年6月。熊本市内の中心部で、多国籍料理をメインとした夜営業のお店としてスタートした。移転を考えはじめたのはちょうどコロナ禍の頃。「できる限り地産地消でやりたいという思いがあって、1店舗目の頃から畑を借りて野菜作りを始めました。やっぱり店を営業しながらやるのは難しいし、土づくりも時間がかかるし、まだまともに栽培できたことはないんですよ。でもそういう難しさも含めてチャレンジしていく中で、自然農法やパーマカルチャーの考え方に辿り着いて、これは面白いなって。前の店もよかったんですけど、もっと自分たちがやりたいことの可能性が広がる場所を探して出会ったのが、今の場所です」(淳平さん)パーマカルチャーとは、資源が循環する自然の仕組みを暮らしに取り入れながら、食べ物やエネルギーをできるだけ自分でまかない、持続可能な暮らし方をデザインする考え方。その理想に近づこうと思えば、より自然に近い人里離れた田舎に行く方が理に適っている。しかし淳平さんは、生活に身近な場所で、今あるものの中で実験を重ねることにこそ、意味も面白さも見出しているようだ。[caption id="attachment_12021" align="alignnone" width="960"] 〈▲取材に同行したHIKEの佐藤陽子さん(手前)と淳平さん・裕美さんは、互いに店を持つ前から出会い、同時期に開業。刺激を受け合ってきた〉 [/caption]「最初は田舎で自給自足というのも考えたんですけど、それよりもこういう街中で、みんなが手軽に実践できるのがいいなと思っていて。例えば、屋根に降った雨水を貯めておけば、畑にも使えるし災害時にも備えられる。最近はグリーンカーテンもやってみたいなと考えているんですけど、つる性のゴーヤなどの植物を育てて店を覆えば、夏場少しでも涼しく過ごせて消費するエネルギーも減らせるし、収穫したものは食べられる。飲食店という機能はあくまでその中の一個として、地域や町全体、一つの拠点の中ですべてを賄って循環させる暮らしをつくれたらいいな。そういうロマンを追い求めて勉強中、実験中です」(淳平さん)店の隅には、淳平さんが子どもの頃から指針にしているという「風の谷のナウシカ」の原作漫画、全七巻が並んでいる。人間と自然が拒絶し合う中でその間に立ち、悩み苦しみながらも、破壊ではなく調和を求めていくナウシカの物語に、幾度となく背中を押されてきた。人生に寄り添ってきた物語を思い出し、緊張が解けた様子の淳平さんからふとこぼれたのは、「自由が苦しかった」という一言だった。「20代の頃、現場仕事をしながらぷらぷらしていて。自分でも自由がいいと思っていたし、周りにも自由でいいねって言われるんですけど、“自由”が苦しかった。自由って、実はすごく難しくて、上手く扱うためには経験やスキルが必要。そう気づいた時に、“今あるもので”という枠を作って、その中で自分にできることを考えて少しずつ広げていく方が、実はすごく楽しくて僕にとって自由だったんです」(淳平さん)一杯のフォーに込めるやさしい世界2年前の店舗移転を機に、タイムは夜の店から朝の店へ、多国籍料理の店からフォーの店へと変化した。 「1店舗目でコロナ禍になった時にお昼の営業を始めて、その時にフォーもメニューに加えていたんです。フォーは、僕ら二人とも好きで。毎日食べても飽きないし、子どもからお年寄りまで食べられます。お米の麺というのも日本に馴染むし、本場を目指さなくても身近な食材でこの場所でつくるローカルなフォーが作れたらなと思って、移転後はフォーの店を始めることにしました」(淳平さん)「小麦アレルギーのお客さんが喜んで食べてくれるのも嬉しいですね。フォーは朝ごはんとしてもあっさりと軽く食べられるので、今のお店を始める時に、営業時間を朝8時から午後3時にしました。朝はお客さんとゆっくりコミュニケーションを取れて楽しいですよ」(裕美さん)&nbsp;[caption id="attachment_12018" align="alignnone" width="960"] 〈▲定番のフォー2種類に加え、季節のフォー(写真、中央上:夏限定冷やしフォー)やサイドメニューが並ぶ〉[/caption]タイムのメニューに並ぶ定番のフォーは、フォー・ガー(鶏肉)と、フォー・ボー(牛肉)の2種類。スープの主役となるのは、熊本県植木町で平飼い養鶏を行う里奏園(りそうえん)から仕入れる親鶏だ。卵を産み終え、肉質が硬く需要が低い親鶏も、タイムでは長時間炊いて旨みを引き出し、肉も柔らかく仕上げる。野菜も同様に、食べられる部分はすべて使い、切れ端からも丁寧に出汁をとる。残った食べられない部分はコンポストにして堆肥にし、畑へと還す。[caption id="attachment_12017" align="alignnone" width="960"] 〈▲野菜と親鶏を使ってじっくり出汁をとったフォー・ガー〉[/caption] 「人間から見て価値の低いものがゴミと呼ばれて厄介者扱いされますが、そもそもゴミを出すのは人間です。さらに食べ物に関しては、たとえ切れ端でも、自然が生み出す資源です。ゴミを資源として捉えて循環させて、最後まで余すところなく使いたいと考えています」(淳平さん)自然が生み出す資源を、食材として無駄なくいただく。淳平さんが大切にするその姿勢は、昨年のknowledge.にも現れていた。その日だけの特別メニューとして提供されたフォーのスープに使われていたのは、熊本県玉名市にある「玉名牧場」で生まれ育った、雄の仔牛。酪農において乳を出さない雄の子牛は長く飼育されることが少なく、肉としても価値が低いとされている。そのような現状を背景に、玉名牧場の牧場主・矢野希実さんは、”雄であってもその命を最後まで大切に扱いたい”という信念を胸に、一頭一頭を育て続けている。何かを思い出したように厨房に入って行った淳平さんが、大切そうに持ってきた紙袋から取り出されたのは、両手にすっぽり収まるほどの白い骨。中の髄まできれいに空洞になっているそれは、昨年のknowledge.でスープに使った仔牛の骨を、捨てずに取っておいたものだった。[caption id="attachment_12019" align="alignnone" width="960"] 〈▲玉名牧場では、雄の仔牛にも一頭一頭名前が授けられる。昨年のknowledge.でスープに使われたのは「りょうくん」の骨。「名前がもわかると余計に、大切に扱いたいと思いますよね」(淳平さん)〉[/caption]「雄の仔牛に対する矢野さんの思いにふれたのは、友人が営む〈Peg〉(玉名郡和水町の料理店、knowledge.にも出店)で、玉名牧場の仔牛のお肉を食べたことがきっかけでした。矢野さんの“雄の仔牛の命も大切に扱いたい”という考えに共感して、自分もそんなふうに食材に向き合いたいし、そういう食材を選んで使っていきたいと思ったんです」(淳平さん)実は、淳平さんと裕美さんはHIKE主催のトークイベント(2023年開催)でも矢野さんの話を直接聞いていた。knowledge.への出店が決まり、改めて矢野さんに連絡を取った二人が玉名牧場を訪ねた時に見たのは、一頭一頭名付けられて、元気に駆け回る仔牛たちの姿。再び矢野さんの思いにふれた二人は、仔牛から丁寧にスープをとり、フォーという自分たちの表現を完成させる、そんな一杯を仕立てたのだった。 じっくりと時間をかけて、仔牛の、親鶏の、野菜の命がスープになり、立ち上がる湯気が原っぱを吹く風にのる。掴みかけたknowledge.の風は、そこに集う30組の料理人と生産者の分、幾重にも重なって絡まり合いながら吹き抜けていく。その根っこにある「おいしい」をもう少し追いかけるべく、後半は農家「Chandra en Chandino」(チャンドラ エ チャンディーノ、以下チャンドラ)の畑を訪ねた。&nbsp;おいしいものが、食べたいから7月下旬。朝8時に訪ねたチャンドラの畑は、すでにジリジリと肌を焦がすような日差しに照らされていた。先に来て待っていてくれたのは、遠藤由佳さん。夫の秀行さんとともに、熊本市北部に位置する植木町で、点在する7箇所の畑を使って多品目のハーブや野菜を育てている。[caption id="attachment_12004" align="alignnone" width="960"] 〈▲ Chandra en Chandino・遠藤由佳さん〉[/caption]1日の畑仕事やイベント出店を終えて、日が陰り始める夕刻の頃。チャンドラのSNSには、野菜をメインとした色とりどりの一皿に、まるで瑞々しい宝石のようなハーブや塩が散らされた「ワインのおツマミ」の写真が投稿される。四葉きゅうりとディルの春巻きには、フェンネルの花と塩をぱらり。鯵のなめろうには赤玉ねぎとレモングラスを混ぜ込んで、仕上げに散らすのはコリアンダーの花とやわらかな種。酢飯と自家製のキムチ、ディルをボルドーエンダイブで巻いて手巻き寿司。聞きなれない魔術のような響きの野菜やハーブの連続に、味の想像は容易につかないけれど、それらがまだ出会ったことのない未知のおいしさであることは間違いない。なぜって、由佳さんの毎日の食卓に並ぶごはんだからだ。&nbsp;「農家」以外の言葉で由佳さんを紹介するとしたら、生粋の食いしん坊。それも、本当においしいものを知っていて、それを育てることも料理することもできる“ホンモノ”だ。「基本は、おいしくお酒を飲むためのつまみを作れればいいんです。自分たちが食べたいから、おいしいものを育てる。その結果行き着いたのが、肥料や農薬を使わない自然農法だったというだけ」由佳さんが農業を始めたのは10年前。それまでは、新卒で入社した大手製薬会社のエンジニアとして、システムの立ち上げ期に当たる怒涛の約5年間を経験した。「農家に転身する」という強い意志があったわけではないと言うけれど、2015年2月に退社後、その年の春には種まきを始めている。  「もともとものづくりが好きな性格なので、生み出すものは違うけど、0を1にする、無いものを作るという作業としてはエンジニアも農家も同じ感覚です」理屈としては理解できても、エンジニアと農家では仕事の内容も環境も全くの畑違い。それでも、“同じ感覚”と言う由佳さんの物事に向き合う姿勢は、畑を案内してもらう中で少しずつ見えてきた。最初に見せてもらったのは、トマトの畑。収穫の最盛期を終えた膨らんだような形が特徴のエアルームトマトや、これから色づき始める中東産の黒いトマト、ピンク色のタイ原産のトマトなど、トマトだけでも様々な種類が実っている。「同じトマトでも、大玉と中玉・ミニトマトでは畑の場所を別にしています。去年、猛暑でかなり被害を受けてしまったので、今年はリスク分散のために場所も分けて、植え付けるタイミングも1週間ごとにずらしたりと工夫しました」[caption id="attachment_12002" align="alignnone" width="960"] 〈▲秋の収穫期に向けて背を伸ばし始めたピーマンの間には落花生の苗。それぞれ必要な栄養分が違うため、同じ畝に植えることで互いに栄養を補完し合う〉[/caption][caption id="attachment_12008" align="alignnone" width="960"] 〈▲つる性のささげに使うのは、竹の支柱と海苔の養殖用の網。有明海に面する熊本らしい活用方法は、高騰する農業資材への費用を抑えるための工夫〉[/caption]由佳さんの畑では、肥料や農薬を使わないことはもちろん、水やりも行わない。植物は雨水や土に含まれる養分といった、自然環境を糧にたくましく生き延びている。とは言っても、年々厳しくなる夏の暑さの中で、畑の気候や環境に合った丈夫な野菜を育てるために重要な作業が「種とり」だ。種とりとは、育てた植物から種を採り、それを翌年以降の栽培に使うこと。「種類ごとに綺麗で虫がきていない元気のいい株から種とりを繰り返すことで、この土地の気候風土に合った種が、年を追うごとにつむがれていきます。例えば、去年の猛暑の中を生き残った種から育つ今年の野菜たちは、去年よりも暑さに強くなります。もう7年くらい種とりを続けているきゅうりは、他の農家さんでは収穫期が終わっていても、うちではまだまだ収穫できるんですよ」[caption id="attachment_12006" align="alignnone" width="960"] 〈▲見学させてもらった畑はほんの一部。チャンドラでは、トラクターなどの重機や軽トラも使わずに植木町内に点在する7箇所の畑で農業を営んでいる〉[/caption]農家として10年目を迎えるチャンドラ。育てているハーブや野菜は、今や150種類以上。自宅には、種を保管するための部屋があるほどだという。「以前はイタリアやフランス、戦争が始まる前はウクライナからも種を取り寄せていました。今は種とりをすることで自給率が9割を超えているので、暑さに強い中東産のトマトを育ててみようとか、気候に合わせて新しい品種を取り入れる時以外は種を買うことはありません。フランスの涼しい山で育つような子も、熊本の厳しい暑さの中で3代目、4代目と種をつむいでどんどん強くなって、今ではバリバリの熊本育ちの5代目ですよ」[caption id="attachment_12003" align="alignnone" width="960"] 〈▲チャンドラの畑には見慣れない野菜があちこちに〉[/caption][caption id="attachment_12007" align="alignnone" width="960"] 〈▲花をシロップに使うエルダーフラワーの実。ハーブや野菜だけではなく、果樹の他、養蜂にも取り組んでいる〉[/caption]海外から固定種の種を仕入れるには、植物防疫法や種苗法などいくつかの法律に基づく手続きが必要。かつ高額な輸入費用もかかる。それでも日本では珍しい野菜を多種育てる理由を聞くと、それもまた「おいしいものが食べたい」という、食いしん坊たちの純粋な欲望が理由だった。「仲良くしている料理人や料理家たちが海外出張から帰ってくると、『市場で食べたこの野菜がすごくおいしかった』って写真を見せてきたり、『ペルーのこのじゃがいも、日本でも育てられない?』とか相談してくるんですよ。そういうのを引き受けてたら、気づいたらこんなことに」[caption id="attachment_12012" align="alignnone" width="960"] 〈▲カフェ営業を行うHIKE(写真右、HIKE・佐藤陽子さん)も、チャンドラの卸先。熊本県内外の料理家や料理人たちが、チャンドラがつくる野菜を求めてやってくる〉[/caption]その土地に合うものを、自分でみつける肥料や農薬を使わないことや、種とりを続けること、月の満ち欠けに沿って畑の作業を行うこと。由佳さんにとってそれらは特別な思想や手法に基づくものではなく、「たまたまうちの畑や私のやり方にはそれが合っていたというだけの、あくまで“やり方”の話」だという。けれども決して王道ではないそのやり方を、由佳さんは学校で学んだり他の農家で修行するわけでもなく、自分の手で学び、切り開いてきた。「畑や野菜のことでわからないことがあれば、ChatGPTに海外の論文を拾ってきてもらって、ひたすら読み漁っています。海外の野菜を多く育てていることもあって、日本の文献を調べても知りたいことが見つからないことが多いんですが、今はどんな言語でもGoogleが翻訳してくれるから便利です」世界中の知識が瞬時に手に入る時代になったけれど、種をまき育てるのはあくまでこの地域の土であり、気候や条件。画面の向こうから得た知恵をどう活かすかは、最終的に自分の足元で確かめるしかない、と由佳さんは言う。「海外と日本とでは気候が全く違うし、植木町は冬はぐっと冷え込んで夏は暑いという厳しい環境です。さらに、7箇所ある畑はそれぞれに表情があって、風向き、日当たりも違います。だからたまに、農業を始めたいという人から『勉強をしたいので雇って欲しい』と相談を受けたりするんですけど、自分の畑を持ちたいなら、その土地にどんな作物が合うのか、自分に合うのはどんな育て方なのか、さっさと自分の場所でやった方がいいよって伝えています」[caption id="attachment_12009" align="alignnone" width="960"] 〈▲朝露に濡れるのも、土によごれるのもいとわずに、由佳さんの足はぐんぐん進む〉[/caption]文献で得た情報を自分の畑で実践して、失敗も重ねながら、この土地に合った方法や自分のやり方を見つけてきた由佳さん。教科書も正解もない中で、唯一揺るがないものとして進むべき道を示すのは、自分が信じる「おいしい」の味。由佳さんはそれを、料理人のもとに通う日々の中で見つけた。「農業で食べていけるようになったのは、本当につい最近です。最初の頃は収穫量がまだ少ないということもあるけれど、売り先もないし、売り方もわかりませんでした。卸先探しや勉強も兼ねて働き始めたのが、同じ植木町にあるフレンチレストランです。そのお店には、玉名牧場の矢野さんを始め、いろんな生産者さんが卸しに来られるので、味見をさせてもらったり、話を聞いたり。その時に知り合った人たちとの出会いは大きいですね」 「そうやって出会う生産者さんや料理人に教えてもらったお店にも、足繁く通いました。当時は売上げが月に5千円とかだったのに、夫と二人で、一人1万円以上のコースを食べてお酒も飲んで、お会計が6万円以上なんてことも。貯金を切り崩してでも食べに行っていましたね。今の卸先は、そうやって開拓したお店がほとんどです」現在チャンドラには、熊本県内を中心に料理人の他、県内外の人気料理家からも注文が入る。定期的に出店する熊本市内やHIKE(熊本県玉名市)でのマルシェには、チャンドラを目当てに毎回のように買いに来る個人客の姿も。オンラインショップを開放すると、畑で採れる野菜やハーブを使って由佳さん自ら作る調味料などの加工品も、次々と注文が入る人気ぶり。前職のエンジニア時代には、顧客管理システムも扱うなどマーケティングに関する仕事も経験したという由佳さん。卸先や売り先の開拓もおてのものかと思いきや、「あまり営業はしないようにしていて」と答える理由にも、明確な自分のものさしがあった。「お互いにリスペクトが持てる、対等な関係性を築ける人とだけ付き合いたいんです。こちらから『うちの野菜を使ってください』という始まりだと、歪な上下関係ができてしまいがちです。だから決して大きな声で売り込むようなことはしません。でも、おいしいものを作り続けていれば、誰かがそれを見つけて勝手に広めてくれたりします。そういうつながりに助けられて、気づけば10年ですね」 玉名牧場、タイム、Chandra en Chandino。knowledge.に参加する生産者と料理人のもとへ、そこに吹き始めた風を確かめにゆく小さな旅路。食に向き合う人たちが惜しみなく分け与えてくれる言葉を追いながら、そこには常に「誰と何をどんなふうに食べたいか」というまなざしがあった。それは「今日の夕飯」という日常にも、「どう生きるか」という生涯にも向けられている。食べることは、生きること。何をどう食べるかは、どんなふうに生きたいか。自分の舌で、身体で感じる「おいしい」との出会いに心が震えるその瞬間の中に、進むべき方へ向けられた矢印は、そっと置かれているのかもしれない。&nbsp;写真:原 史紘〈knowledge.2025〉日時:2025年11月16日(日) 10:00-16:00会場:鶴の河原河川緑地(熊本県玉名市永徳寺37から302-5地先)主催:玉名地域デザイン協議会※入場無料、予約申し込み不要詳細は下記をご確認ください。knowledge.ホームページInstagram&nbsp;]]></description>
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    <title><![CDATA[knowledge.に吹く風〈前編〉牛も人も、なにを食べるか。玉名牧場・矢野希実がつなぐもの]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/knowledge-1</link>
    <pubDate>Sun, 07 Sep 2025 21:00:13 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[なんにもない、原っぱだった。どの町にもあるような、河川敷に整備された芝生の広場。HIKEの佐藤充さんは、目の前に広がる原っぱをまっすぐに見つめて、横顔のままにこっと笑った。 「明日ここに九州各地から、とんでもない料理人と生産者たちが集まるよ」[caption id="attachment_11932" align="alignnone" width="960"] 〈▲熊本県玉名市を流れる一級河川・菊池川の河川敷に整備された「鶴の河原河川緑地」〉[/caption]にわかに信じがたい風景は、翌朝、現実となった。両手に調理道具や食材を持った料理人たちが、まだ朝露に濡れる芝生を踏みしめながら、次々と車を降りて集まって来る。早朝からの収穫や作業を終えて、たくさんの農作物や加工品を詰め込んだ車で到着する生産者の姿もある。ナンバープレートには、熊本、福岡、大分、長崎。久々の再会に抱き合う人たちや、初めての出会いに少しの緊張と喜びが伝わってくる人たちも。挨拶もそこそこに各自の設営が粛々と進み、開場とともに多くの来場者がゲートをくぐる頃には、もうそこは、なんにもない原っぱではなかった。[caption id="attachment_11930" align="alignnone" width="960"] 〈▲2回目となる2024年は小雨の降る中の開催となったが、前年を上回る来場者数で賑わった〉[/caption]毎年11月、熊本県玉名市を流れる菊池川の河川敷を会場に開催されるknowledge.(ノウレッジ)は、今年3回目の開催を迎える。主催は玉名地域デザイン協議会。出店は公募ではなく、協議会の会長を務めるHIKEオーナー佐藤充さんと陽子さん夫妻がキュレーションを担っている。九州の食や文化を見つめ続ける佐藤夫妻の研ぎ澄まされた感性を刺激し、出店者として迎えられる約20組の飲食店と、約10組の生産者たち。向かい合わせに連なるテントの間では、来場者たちが、次は何を食べようかと、ワイン片手に幸せに彷徨う。その中で、一際嬉しそうな眼差しでその風景を見渡す人がいた。この場所に流れ込んだ想いの源にして、この土地に根ざす料理人や生産者たちの“食”へのまなざしに影響を与えてきた存在。「玉名牧場」の矢野希実さんだ。[プロフィール name="矢野希実 " message="やの・きみのり。「玉名牧場」代表。1969年、福岡県北九州市生まれ。2000年に、熊本県玉名市三ツ川の山地にて玉名牧場を開く。10年かけて自ら山を開拓し、現在では東京ドーム約3個分(15ヘクタール)の放牧地に約30頭のジャージー牛を飼う。妻の繭子さんや数人のスタッフとともに牧場を運営。牛乳の他、自ら加工を行うチーズは、熊本県内を始めとして矢野さんの思想に共感を寄せる料理人や、そのおいしさに惚れ込む人々に愛されている。"]手応えのある仕事から、手ざわりのある生き方へ「玉名牧場」は、HIKEやknowledge.の会場がある市の中心部から車で20分ほど、標高200mの山の上にある。矢野さんとはHIKEの立ち上げ前から家族ぐるみの付き合いだという佐藤夫妻と一緒に、玉名牧場を訪ねたのは7月始めの初夏の頃。充さんの運転で、車一台がやっと通れるほどの幅の山道を、上から垂れる蔦や横から飛び出す枝を掻き分けるように進む。しばらく続く険しい道を抜けて、視界が開けた先に出迎えてくれた風景は、幼い頃から矢野さんの頭の中にあり続ける“里山の生き方”から立ち上がったものなのだろう。[caption id="attachment_11944" align="alignnone" width="960"] 〈▲牧場に隣接する自宅に向かって駆け出す、矢野家の一人息子・みのるくんの後ろ姿が矢野さんの幼少期と重なる〉[/caption]矢野さんの出身は、福岡県北九州市八幡東区。日本の近代化を支えた八幡製鉄所とともに工業都市として発展してきた町で、矢野さん自身も、製鉄所の設備を設計するプラントエンジニアとしてキャリアをスタートさせた。「巨大な設備を自分で設計して作って実際に稼働させるのは面白くて、やりがいのある仕事でした。でも続けているうちに段々と、定年までずっとこれをやり続けるのかという、漠然とした疑問を持ち始めたんですよ」仕事に熱意を燃やし充実した日々を送る一方で、「一生涯この生き方でいいのか?」と矢野さんに問いかけてきたのは、幼少期に経験した両親の故郷の風景だった。「大分の玖珠の方です。夏休みや冬休みになると両親に連れられて里帰りするんですが、祖父母は米も野菜も自分たちで作っていて、母方の実家は養豚もやっていました。家の周りには鶏や犬が放し飼いにされていて、そういう、昔の里山の生き方がいっぱいありました」[caption id="attachment_11988" align="alignnone" width="960"] 〈▲もともと牛が大好きだったという妻の繭子さんも、矢野さんと一緒に牧場を営む〉[/caption]原風景として憧れた里山の生き方に重ねて、もうひとつ矢野さんの行動を後押ししたのは自身の体質。子どもの頃からアトピーの症状がひどく、大人になってからは喘息にも悩まされていた。少しでも症状を和らげるためには、食べ物が大切だという考えに行き着いた矢野さんが出会ったのは、肥料も農薬も使わない、自然農法を実践する農家さんだった。エンジニアとして働きながら、週末は農家さんの手伝いに通うようになると、段々と農業への興味が深まっていったという。手伝ったお礼にもらう米や野菜は、普段食べているものと全くの別物。そのおいしさに感動し、食べ続けているうちに体も健やかに変わっていくのがわかった。自らの身体を通して感じた食の大切さと、畑を手伝うようになって知った食べ物を作る面白さ。「自分でもやってみたい」という気持ちは次第に大きくなり、26歳の時に初めて自分の田畑を借りて、1年間農業に挑戦することにした。[caption id="attachment_11993" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 矢野さんが大切に取っている、収穫から長いものでは10年近く経つ野菜。肥料や農薬を使わずに育った野菜は、腐らずに水分が抜けてきれいに枯れていく〉[/caption]「農業は大変だから、1年間やりきれないなら辞めようと、自分を試す気持ちで始めました。ところが、やってみたらエンジニアの仕事よりも楽しくて。それで、後先考えずに会社員を辞めてしまって。それからは大変でしたね。とにかく、食えなかった」借りた土地を耕しながら米と野菜を作り始めた、若き矢野さん。農業で生計を立てるには程遠い中で、どれだけ一生懸命土づくりをしたとしても、借りている土地である以上「返せ」と言われたらそれまで。「自分でやってみたい」という気持ちで始めた農業は、やがて「自分の農場を持ちたい」に変わっていった。自然の摂理の中で牛を飼う田んぼでも畑でもなく農場でなくてはならなかったのは、矢野さんが思い描く風景に、家畜の姿があったから。憧れた里山の生き方は、暮らしのそばに牛や豚・鶏などの家畜がいて、人と動物が関わり合う中で生活が営まれる風景だった。「牛・豚・鶏、どれを勉強するか考えた時に、放牧場で草を食べる牛の姿が思い浮かんで、牛がいいなと思ったんです。最初はそんな単純な発想、ただの直感です」それから2年ほど、矢野さんはアルバイトで熊本や福岡の牧場を回る生活を始めた。今の玉名牧場につながるような理想に近い牧場を経験することができたのかと思いきや、実際に矢野さんの目に映ったものはその真逆だったという。牛たちは狭い牛舎の中で飼われ、十分に運動ができない状態で、より多くの乳を出すために穀物や配合飼料を中心とした餌をたっぷりと与えられる。寿命が訪れる前に乳牛としての役目は終えられ、屠畜されて肉になる。空いた牛舎には、またすぐに新しい雌牛が運ばれてくる。[caption id="attachment_11936" align="alignnone" width="960"] 〈▲玉名牧場で牛舎を使うのは、朝夕2回の搾乳の時だけ。時間になると牛たちは決まった順番で自ら牛舎に入ってくる〉[/caption]理想には程遠い現状を目の当たりにして、心が折れる方が普通。しかし矢野さんは、真逆の状況の中でこそ、自分が思い描く農場の輪郭を確かなものにしていった。「100頭以上の牛を牛舎の中で飼っていたアルバイト先の牧場では、1日にダンプカー2台分くらいの糞尿が出ます。配合飼料や海外から輸入される質の悪い餌を食べて消化不良の状態にあり、糞からは悪臭が立ち込める。新米だった僕は、牛舎の中で毎日それを掻き集めて畑に捨てに行くのが仕事でした。従来の酪農の在り方を現場で体験しながら、牛を命として扱いたいという思いがより確かなものになりました。そのためにどういう飼い方をすべきかと考えて辿り着いたのは、やっぱり最初に直感で思い描いていた“放牧”だったんです」矢野さんは現在、東京ドーム3個分の広さの放牧場で、茶色い毛並みが特徴のジャージー牛約30頭を飼っている。牛を近くで見せてもらえることになり、放牧場を歩きながら「こんなに広いのに、なぜ30頭しか飼わないんですか?」と聞くと「それが適正だから」と、一切の迷いない答えが跳ね返ってきた。矢野さんが考える“適正”はどんなものさしで測られるものなのだろう。そのヒントはきっと、この風景の中に。そう思って目をこらすと、丘の向こうにこちらをじっと見つめる牛たちの姿があった。矢野さんに続いて牛たちの群れに近づく途中、「寝ている種牛を驚かさないように起こすから、ちょっとそこで止まってて」と指示を受ける。種牛というのは繁殖のために飼われる雄の牛のこと。玉名牧場では約30頭の雌牛に混ざって1頭の雄牛が放牧されている。一般的な酪農では当たり前に行われる人工授精は行わず、牛たちがそれぞれのタイミングで行う自然交配によって、取材時もほとんどの雌牛がお腹に命を宿している状態だった。さらに、出産にも基本的に人が立ち会わないというから驚く。[caption id="attachment_11989" align="alignnone" width="960"] 〈▲▼ 繭子さんに名前を呼ばれ、元気に駆け寄ってくる子牛たち。乳牛にはなれない雄の仔牛にも一頭ずつ名前が授けられている〉[/caption]「当然、野生の牛は自分で産むでしょう。牛は本来、人の介助を受けずに自分で産むものです。ここの子達は、放牧場の端っこで自分で仔牛を産み落とします。特別な事情がない限り、僕らが立ち会うことはありません。羊水で濡れた仔牛を母牛が舐めて乾かして、仔牛はその刺激で立ち上がります」説明をしている矢野さんに甘えるように擦り寄ってきたのは、最年長のみくちゃん、21歳。人間で言えば80歳を超えているが、現役どころかそのお腹にはおそらく仔牛がいて、無事に出産すれば16回目になるという。一般的な酪農の平均が、お産3〜4回、乳牛として生かされるのは5〜6年ということと比べると、奇跡のようなご長寿。なぜ?もはや質問にもならずに矢野さんの目を見ると、何も特別ではないといった様子で答えた。「本来の牛の生態をきちんと理解して、できる限り野生に近い餌を与え、環境を作る。自然の摂理の中で牛を飼えば、ちゃんと本来の寿命まで生きられるんですよ」[caption id="attachment_11938" align="alignnone" width="960"] 〈▲若い頃は群れのリーダーでもあったみくちゃん。角が一本短いのは、若い頃のおてんばの跡〉[/caption]「牛も人も、何を食べるかが大切」という矢野さんが牛たちに与える餌は、牧草のみ。穀物や配合飼料は一切与えず、牧草が足りない時には河川敷の草を刈って牧場まで運ぶ。それもなぜかと問われれば、それが本来の牛の生態だからだ。放牧場の隅には水場と牛が舐めるための塩の固まりが置かれていて、牛たちは自分の意志で水分や塩分を摂りにやって来る。「本来食べるべきものを食べれば、こんなきれいなものになるわけですよ」そう言って矢野さんが足元から拾って見せてくれたのは、草の繊維が固まって干からびた、ほとんど土のような状態のもの。それが牛の糞であると伝えられても、なんの躊躇もなく触れられるほどに嫌な匂いがしない。指でつまめばほろほろと崩れて土の上に落ちていく。よく見れば、同じものが放牧場の至る所にある。まだ水分が残っている状態のものからも、鼻をつくような悪臭は感じられない。当然ここでは、若き矢野さんが経験したように人間が糞尿を集める必要はなく、放牧場に落とされた糞は自然と土に還っていく。牛を命として扱うために、矢野さんは牛の本来の生態に目を凝らし、耳を澄まし、牛から教えてもらうことを選んだ。27年前、当時29歳の矢野さんが、自然の摂理の中で牛を飼う理想の酪農を実現できる土地を探す中で出会ったのが、今玉名牧場があるこの土地だ。山も人も、時間をかけて切り開くそれまで玉名に縁のなかった矢野さんは、知り合いからの紹介でこの土地と出会った。当時住んでいた場所から片道1時間半かけて地主の元に通い本気を見せ、最初は無料で貸してもらう約束を取り付けた。無料とは言っても、20年以上使われていなかったその土地は荒れ果て、鬱蒼とした森があるだけ。それでもここが、自分の農場を作るのに最適な土地だと確信した理由は、今も濁らずに矢野さんの言葉で語られる。「玉名はまず、一年中気候が温暖で、作物を育てるのに適した豊かな土地です。米も野菜も果樹も作れるから、自給自足しやすい。玉名市内を流れる菊池川の流域は、江戸時代に熊本藩を支えた重要な米どころで、西日本でも名の通った肥後米の産地として知られてきました。温暖なので雪もほとんど降らず、牧場がある標高200mというのは冬でもちゃんと青草が生える高さなんですよ。だから冬場でも放牧しやすい」[caption id="attachment_11933" align="alignnone" width="960"] 〈▲knowledge.会場である菊池川河川敷には、まさに米俵を積み込むための船着場跡が残されている〉[/caption]2年に渡る土地探しの期間を経て、今の場所で「玉名牧場」を始めたのは25年前。矢野さんは、「入植した日」として2000年6月1日という日付をはっきりと口にした。“入植”という言葉は聞き慣れないが、当時の様子を聞けば、荒れ果てた土地に身一つで入っていく姿はまさに開拓民だ。「当時飼っていた牛のハナコと、豚のカツオ、犬のモモコをトラックに積んで引っ越してきました。住まいは、どうにか住めるように自分で建てたほったて小屋。貯金は数千円というスーパー貧乏で、さて明日からどうやって暮らしていこうっていう状況ですよね」まずは土地を開拓し、放牧場をつくることから。当時、重機なども持っていなかった矢野さんを助けたのは、ともに暮らし始めた牛たちだった。「切り開く土地を柵で取り囲んで、その中に牛を放すと、牛が草を踏みつけて食べられる草は全部食べちゃうんですね。残った竹や雑木は、草刈機とチェーンソーを担いで入って切り倒していく」荒れ果てた地を目の前に、一人で。その姿を見て、ボランティアで手を貸してくれる仲間や友人の存在に助けられながらも、毎日開墾に対峙する労力と精神力は全く想像できるものではないが、当時を思い出す矢野さんの瞳には、他の誰にも止められない冒険心を携えた少年のような光があった。「鬱蒼としたジャングルを目の前にすると、ふつふつと静かに燃え上がってくるんですよ。チェーンソーを担いで森に入って、間引く木を自分の感覚で選びながら切り倒していく。すべて切り倒せばいいというわけではなくて、できるだけ自然に近い状態を残せるように、残す木も見極めるんです。振り返ると、自分が切り開いたところが理想に近い放牧地になっていくのは、快感なんですよね。それを毎日少しずつ。今の広さ(15ヘクタール)まで開拓するのに、10年かかりました」 経済的にも厳しい状況が続いた。自然農法で米や野菜を育て、鶏を飼って卵を販売し、さらに最初の4年ほどは派遣でエンジニアの仕事も続けながら食い繋ぐ日々。酪農を本格的に開始し、牛乳の販売による収入が入るようになったのは7年後の2007年。そのタイミングで資金を借りてチーズの加工場を立ち上げ、酪農単独で収支が合うようになるまではさらに5、6年かかったという。「僕らが作るものは、値段だけ見たら高いですからね。一生懸命作っても、美味しさや質の高さが伝わらないと売れない。だから、伝える努力をしなきゃと思ったんです。食べることの大切さ、ちゃんとしたものを選ばないといけない理由を僕らから伝えることで、選んでくれる人、買ってくれる人が増えていく。そうやって、時間をかけてやってきました」点がつながり、動き出す「玉名牧場を始めた頃はまだ、自然農法という言葉すら全然浸透していませんでした。同じ考えで農業をする仲間も今と比べると少なく、それぞれが個々で頑張っている状態。僕もやっていくのに精一杯で、なかなか悩みや苦しみを相談し合える仲間がいませんでした」孤軍奮闘していた矢野さんが食や農業に対する意識を共有できる仲間と出会う契機になったのは、熊本市内でイタリアンレストラン「antica  locanda MIYAMOTO」を営む料理人・宮本けんしん氏らが中心となり、2011年に立ち上げた「アルチザンクラブ」。熊本の食文化を未来に残すことを目指して、自然農法の考え方で農業を営む生産者と、そこに共感する料理人がともに活動を広げる取り組みとして始まった。クラブへの参加を通じて、同じ思いを共有する生産者仲間や、料理という表現を通じて食の豊かさや大切さをともに伝える料理人とのつながりが一気に広がった矢野さんは、玉名牧場としても〈伝えること〉に力を入れ始めた。 「2010年代は、ひたすら牧場の見学を受け入れていました。牧場を案内しながら、食べることの大切さやどんな食べものを選ぶべきか、1時間半かけて伝えたいことを話した後、僕らが作ったチーズや野菜をたっぷり使ったご飯を食べてもらうランチ付きの見学です。イベントにも積極的に出店して、自分たちでも牧場でイベントを開催したりして、できる限り自分たちで伝える努力を続けました」(※牧場の見学は現在受け付けておりません)[caption id="attachment_11945" align="alignnone" width="960"] 〈▲取材時にいただいた、熟成チーズ。矢野さんの話を聞きながらいただくチーズや牛乳は「おいしい」の階層が深まる〉[/caption]矢野さんの食に対する考え、その“語り”は、少しずつ人々の暮らしの中に根を伸ばしていく。2017年に玉名牧場を訪れた佐藤充さん・陽子さん夫妻も、矢野さんとの出会いによって食への向き合い方が大きく変わった二人だ。[caption id="attachment_11995" align="alignnone" width="960"] 〈▲HIKEオーナー・佐藤陽子〉[/caption]「矢野さんの話を聞いた後、まずは自分たちでもできるところからやってみようと、調味料を質のいいものに変えたり、顆粒出汁を辞めて昆布や鰹節から出汁をとることから始めました」(陽子さん)「そういう生活を続けていくと味覚の感覚が研ぎ澄まされて、おいしいものに出会った時の感動がどんどん更新されていくんですよ。おいしいものを見つける中で、こんな人がいるのかと驚くような素晴らしい生産者さんとも出会えて。僕らはそれを楽しんでいます」(充さん)矢野さんとの出会いから3年後、2020年に佐藤夫妻はHIKEをオープンさせた。開店当初からメニューに並ぶ玉名牧場のクリームチーズをたっぷり使ったチーズケーキは、不動の人気メニュー。お客さんから「おいしかったです!」といった感想や「どんな味ですか?」などと質問を投げかけられれば、佐藤夫妻やスタッフの口からは「玉名牧場、知ってますか?」と会話が始まる。[caption id="attachment_11926" align="alignnone" width="960"] 〈▲玉名牧場のチーズの他、近隣の生産者が育てる平飼い卵や薄力粉などを使ってふんわりと仕上げている。ホールで予約する常連客も 撮影:諸岡若葉〉[/caption][caption id="attachment_11927" align="alignnone" width="960"] 〈▲玉名牧場のランチ付見学時に提供していたピザが、2025年8月より、金・土の夜限定でHIKEのメニューとして復活。生地にはチーズを作る際にできる副産物「ホエー」を練り込み、季節の野菜と玉名牧場のチーズがたっぷり乗せられている 撮影:諸岡若葉〉[/caption]メニューに限らず、HIKEには矢野さんのスピリットが息づく瞬間がある。2023年に矢野さんを話し手の一人として迎えたHIKE主催のトークイベントでは、感銘を受けたスタッフが玉名牧場で働くようになったり、この時の話がきっかけで後にknowledge.で玉名牧場とコラボする料理人が現れたりと、それぞれの胸に「食を通して生き方を見つめ直す種」が撒かれた。[caption id="attachment_11928" align="alignnone" width="960"] 〈▲2023年開催、TRIBUTEvol.3。左から奥津爾(タネト)、矢野希実(玉名牧場)、大島将将貴(にわとり舎) ※写真:HIKE提供〉[/caption]「佐藤夫妻は、僕が伝えたいことを受け止めてくれて、それを彼らなりの視点で具現化してくれています。僕が一農家ではできなかったことを、二人は根気よくやり続けてる。HIKEという場所も、knowledge.もその一つ」[caption id="attachment_11934" align="alignnone" width="960"] 〈▲第一回knowledge.(2023年)では、出店者のnido(福岡県大牟田市、現在店舗は閉店)が玉名牧場の子牛のパティを使ったハンバーガーを販売、早々売り切れてしまう人気ぶり〉[/caption][caption id="attachment_11935" align="alignnone" width="960"] 〈▲初めて出会う美味しさに、会場でそのまま食べる人が続出した川久保農園のマイクロきゅうり〉[/caption][caption id="attachment_11931" align="alignnone" width="960"] 〈▲料理人たちはこの日のためだけのオリジナルメニューに頭を捻り腕をふるう。食いしん坊たちも思わずニコリ〉[/caption][caption id="attachment_11929" align="alignnone" width="960"] 〈▲農産物をお目当てに大きなカゴを持ってくる人たちも。生産者たちも楽しみながらこだわりを説明〉[/caption] 「昔の僕のように、個々に点で頑張っている生産者や料理人が、HIKEやknowledge.を中心に線でつながり、面になっている。それが今から、大きな大きな動きになっていくのを感じています」25年間、矢野さんがひたむきに耕し、蒔き続けた種は、今この地でしっかりと根を張り、芽吹いている。そこはもう、矢野さん一人の場所ではない。牛たちと、家族と、そして矢野さんの想いに共鳴し、ともに風を起こす仲間たちが、確かにいる。その風はいま、原っぱを越え、町へ、食卓へと吹き抜けていく。矢野さんのまなざしを受け取った人々が、それぞれの現場でどんな“風”を起こしているのか――後編では、料理人と生産者たちの物語を辿りながら、その風の行方を追いかける。 &gt;&gt;後編の記事に続く写真:原 史紘 〈knowledge.2025〉日時:2025年11月16日(日) 10:00-16:00会場:鶴の河原河川緑地(熊本県玉名市永徳寺37から302-5地先)主催:玉名地域デザイン協議会※入場無料、予約申し込み不要詳細は下記をご確認ください。knowledge.ホームページInstagram]]></description>
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    <title><![CDATA[教育と少子高齢化の課題を同時に解決!古川理沙が実装する “ふつうの学校”=「新留小学校」モデル]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/furukawarisa</link>
    <pubDate>Sun, 31 Aug 2025 21:00:47 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[森のなかの開けた場所に、平屋の校舎がひっそりと佇んでいる。鹿児島市のベッドタウンとして人気の姶良市も、市街地から離れた山間部は過疎化の一途を辿る。 2007年3月22日、姶良市立新留小学校には在学児童がひとりもいなくなった。 その日を境に、子どもたちの姿が校舎から消えた。廃校にしなかったのは、「いつか子どもたちが戻ってくる日」のため。しかし、その日が訪れることはなかった。あれから17年経った2024年。人口減少と地域衰退の現実に抗うように、この校舎を再び「学びの場」として蘇らせようと立ち上がった人たちがいる。鹿児島で保育園を運営する古川理沙さん、秋田で町づくりを進める丑田俊輔さん、そして当時中学3年生だった古川さんの娘・瑞樹さん。この3人が発起人となり、「新留小学校設立準備財団」を設立、2027年4月の開校を目指して現在も奮闘中だ。過疎化が進む、子どもがいない地域につくられる私立小学校。コンセプトは“ふつうの学校”だという。普通ではなさそうな“ふつうの学校”とはどんなものなのか、中心人物のひとりである古川理沙さんにお話を伺った。[プロフィール name="古川理沙" message="ふるかわ・りさ/(株)そらのまち・(株)無垢 代表取締役、NPO法人薩摩リーダーシップフォームSELF共同代表。1977年、鹿児島県出身。日本、中国、韓国の大学で教師としてカリキュラムマネジメントを行った後、ベビー用品のウェブショップを開業。2017年、鹿児島県霧島市に「ひより保育園」、翌年には鹿児島市天文館に「そらのまちほいくえん」を開園する。他にもレストラン併設型の物産館「日当山無垢食堂」を運営するなど、広義の食育を中心に幅広く活躍。"]日本の教育とは真逆の“力を出し切る”メソッドとは?古川さんは、もともと日本語教師として日本から韓国、中国と渡り歩いてきた。ソウル滞在中、アメリカの教育学会による外国語教育の講義を受ける機会があった。日本の授業では、教師が一方的に話し、生徒は聞くことが中心だ。しかし、そのメソッドは日本の教育教員養成過程とは真逆の内容だった。「学習者たちが持っている力を最大限まで引き出さなければ、この人が今どのレベルにいるのか、次の一歩が何なのかわからない。だからこそ、教師の発話は最小限に抑え、学習者がしゃべりたい、伝えたいと思えるような設計にして、インタビューの仕方を学ぶといったものでした」その効果は後からじわじわ効いてくる。約8年の海外生活を経て、妊娠を機に帰国。出産後に起業し、立ち上げたベビー用品のネットショップは、当初は鳴かず飛ばずだったが、教員時代に身につけたメソッドが役立った。経営も、社員が自力で学び、自分で考えて行動できる枠組みづくりが本質なのだとしたら、これは教員の仕事と同じではないか――古川さんの仮説通り、会社は社員一人ひとりが自発的に働く組織となり、それに伴いネットショップは右肩上がりで成長を遂げていく。 生きる力をつける教育に、20年は最短距離社員が自発的に動き、そして成長しつづける企業の代表として、様々なテーマの講演依頼が舞い込むようになった。そんな時、運命的な出会いが生まれる。「ある講演会の質疑応答で、『理沙さんが次にもし全然違うことをやるとしたら、どんなことをやりますか?』といった趣旨の質問をいただいたんです。その時、咄嗟に『保育園かな』と答えていました」この何気ない一言の背景には、経営者として高専や大学の教壇に立ち続ける中で抱いてきた教育へのある疑問があった。自分たちが学生だった頃、大学はあくまで「学問を極める場」だったが、今は「朝ちゃんと起きなさい」「提出期限を守りなさい」と声かけをしなければならない。そんな愚痴が大学の教務室で交わされる。もっと手前の段階で身につけておくべき“力”が欠けているため、大学が本来の役割を果たせていないように感じた。一方、小学校や中学校の教師に聞くと、入学時点ですでに無気力な子が多いという。だったら必要なのは、そこに至る(=就学前)までの人材育成なのではないか。「自分の子どもたちが通っていた保育園、幼稚園に何の不満もなかったんですけど、先生たちが大変そうだな、ここをこうすればみんな楽になるのに、もっと子どもたちが伸びるのに……と、工夫の種のようなものに気づくことは多かったと思います。20年はかかりますが、できるだけ若いうちからデザインしていくことが、案外最短距離なのかもしれないとぼんやり考えていたんです」この質疑応答での何気ない一言が、次の段階へと古川さんを連れていく。「ある方から、メッセンジャーを通じて、『保育園が作りたいという話は本気ですか?』と聞かれました。口から出たその日まで具体性はなかったので、いくらくらい必要なのか、保育士の資格を持たない自分が作ることができるのか、まったくわかりませんでした。でも、保育園が作りたいかと聞かれたら、いつかやりたいと思っているので答えはYES。そんな話をしたら、会ってほしい人がいると言われたんです」数日後、その紹介者に案内され、とある会社の応接室に通された。出迎えたのは、地域で事業を営む経営者だった。どういった目的で、どういった思いで、どういった保育園を作りたいのかを次々と聞かれ、質問の意図を汲めずに聞かれるがままに答えていく。今までの経験で見てきたのは、自ら好奇心を持ってどんどん学びを深め、世界を切り開いていくような子どもたちだ。自分の子ども含め、確信をもって“自分はこの生き方をしていく”と心に決めて、その未来を自分で描ける子どもを育てていくなら、まだ教育にはやれることがあると思う。そんな話をした。「『僕が考えていることと、とても近い。これからどうやるか、いつやるかは後で一緒に考えていくとして、とりあえずこの場では、君と俺で保育園をつくることはもう決まったということでいいかな』と言われました。つい口がすべって、『私以外の適任はいないです』って答えていました(笑)」今から9年前、2016年6月のことだ。現「ひより保育園」の建物の2階には、声をかけてくれた会社の事務所が今でも入っている。5歳までにご飯と味噌汁がつくれる、教材としての食[caption id="attachment_12037" align="alignnone" width="960"] 〈▲ ひより保育園の園児たち 写真提供:古川さん〉[/caption]6月の出会いからわずか8ヶ月、2017年4月には「ひより保育園」が誕生していた。ひより保育園のコンセプトは、大人がすべて教えてあげないこと。本人が生きる力を身につけて、自分の力で学び取っていくことで“学び”が起こると考える。「だったら大人がいなくてもいいのかというとそうではなくて、先に生まれ、ある程度人生経験を積んでいる先輩として対等に接します。転ばぬ先の杖になる必要はありませんが、転んでも手を差し置くクッションがあるから、心配せずにやれと言える存在です」開園前から決めていたキャッチコピーは、“子どもたちの親友でありたい”。親友とは何かを自分たちに問いながら、子どもたちの生きる力を育んでいく。そして、もうひとつの大きなテーマとして“食”がある。ベビー用品を扱う中で、真面目なお母さんほど、ネット上のあらゆる情報で雁字搦めになっていることがわかった。それならと、小冊子の作成や霧島市内の農家によるワークショップ、母親同士のコミュニケーションを図るイベントなど、食についての知識や経験を共有するモノとコトを展開していった。点だった経験が線を結び、新たな発想が生まれていく。一方、“食”を支える現場に目を向けると、農家の跡取りは減っていて、どうにかやれている新規就農者も補助金が切れたら続けていくことはできないという現実がある。「本当に多角的な知識や経験、投資が必要です。今、農業をちゃんとやっておかないと、霧島市でもなかなか厳しい将来が見えています。食べたものが自分の体をつくっていくなら、やっぱりいいものを食べさせてあげたい。あわよくば、ひより保育園でやることが起点となって地域が循環し始めれば、何歳になっても生きていける場所として地域は続いていきます」「食」を起点に地域の循環を意識した取り組みを続ける中で、古川さんの視線はさらに広がっていった。次に挑んだのは、保育園を通じた商店街の再生だ。舞台に選んだのは、鹿児島市の中心街・天文館にあるパーク通り。当時はテナントの半分がシャッターを下ろしていた。町の活性は、子どもが集まる場所から生まれる。この場所に保育園をつくることで、この状況は改善される──そう考えた古川さんたちは、テンパーク通りに「そらのまちほいくえん」を開園した。その結果、約2年でほぼすべてのシャッターが開いたのだ。子どもと食を真ん中に据えた、本質的な地域づくり[caption id="attachment_12039" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 写真提供:古川さん〉[/caption]保育園をつくろうと考えたとき、真っ先に決めたのは「食を真ん中に置く」という方針だった。その原点は、自分の子どもたちが幼稚園に通っていた頃の経験にある。あの頃、毎日のように娘は制作物を持ち帰ってきた。一生懸命頑張ったことは伝わるが、その9割は先生の手によるもので、最後の目だけを娘が描くといったケースも少なくなかった。経営目線で考えると、制作にかかる材料費や先生の残業代もかかっているのに、ここまで手伝ってしまってはあまり効果はないように感じていた。「だったら、その分の経費を子どもたちの食費に変えたほうが理にかなっていると思いました。もちろん、予算を2倍、3倍にするわけにはいきませんが、地元の顔が見える農家さんから、相見積もりを取らずに言い値で買い続ける。もちろん、その農家さんにしてみたら私たちの保育園の規模なんてたかが知れていますが、職員まで含めると、朝のおやつ、昼ごはん、昼のおやつ、晩ごはんまで結構な食数が動きます」こうした「地産地消で地域の農家を買い支える関係」は、単に食材を仕入れる以上の意味を持つ。見慣れぬ野菜を給食で使って、「スープにしたら子どもたちがいっぱい食べました!」とのコメントを直売所やスーパーの売り場ポップ、チラシ、SNSなどに添えるだけで、地域産野菜の売上が変わるかもしれない。さらに「食に力を入れる保育園に卸している農家」という肩書きは、二次的な信頼やブランド力をも生む。古川さんは直接的な売上だけでなく、その先に広がる波及効果まで視野に入れているのだ。そして、娘たちが持ち帰ってきた粘土や折り紙などの制作物が頭をよぎる。手先を使うことで得られるポジティブな効果は、食を通じて実現できるのではないか。たとえば粘土遊びはお団子づくりに。ハサミは包丁に置き換えられる。点と点が繋がっていく。 「脳にとって、味覚と嗅覚はとても大事な要素です。だとしたら、むしろ折り紙よりも料理。子どもたちも、美味しいものが食べたいから、モチベーションも変わってきます。5歳までの間に、ご飯とお味噌汁くらいは自分でつくれる基盤を学べば、健康寿命も改善されると思いますし、家事分担にも影響を及ぼすと思うんです。いろいろな意味で合理的ですし、教材としても優れているので、食を真ん中におこうと決めました」新留小学校との出会いは、偶然にして必然ひより保育園の考えが多くの共感を呼ぶ中、既に心は次の段階である小学校へ向かっていた。保育園、小学校、中学校──子どもの学びを一貫して支えるには、下から順に積み上げていかなければならない。経営メンバー全員、次は小学校だと思っていた。しかし、小学校設立のハードルは想像以上に高く、好機が訪れてもつかみきれないまま案は浮かんでは消えた。コロナ禍に入る前のある日、友人から耳にしたのが「新留小学校」の存在だった。可愛らしい平屋の校舎は、かつて休校になるまさにそのときを記録するDVDのTVCMにも使われたという。足を運んでみると確かに魅力的だったが、当時は「休校」扱い。再開の可能性がある以上、外部からは手を出せない状態だった。ところがコロナ期間中に、「校舎が朽ちるくらいなら廃校にしてほしい」という陳情が地域住民から出された。その陳情が通って競争入札の対象となったのだが、そんな経緯があったことを、古川さんが知る由もない。何も起こらなければ、この校舎はやがて誰かの手に渡っていただろう。しかし、思いがけない出来事が起きる。ある日、NPOの理事とともにとある人物に訪問することになっていた。しかし、目当ての人物は不在だとわかり、ふたりは行く宛を失った。その時、理事がふと思いついたように言った。 ”新留小学校を見に行こう”「本人もなぜそんなことを思いついたのかわからないらしいのですが、『俺が運転するからドライブがてら、新留小学校を見にいこう』と言い出したんです。その提案にのったら、そこに競合入札の看板が立っていました。嘘みたいな話でしょう?」調べてみると、締め切りは来週、予約金は100万円。ひより保育園とそらのまち保育園の経営陣に「大変なことが起きた。このチャンスをとりにいこう」と伝えた。1週間遅ければ間に合わなかった。競合もいたが、最終的に選ばれたのは古川さんたちだった。保育園も小学校も、まるで与えられたかのように、目の前に次の挑戦として現れる。運と縁、目に見えない力を味方に、古川さんたちの小学校づくりが始まった。暮らしと世代間交流の中に、具体的な学びを得る[caption id="attachment_12040" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 写真提供:古川さん〉[/caption]既に決まっている新留小学校の柱は、「食」と「ことば」だ。「食」はひより保育園同様、自立した後も自分で食べていけるような食習慣、生活習慣をつけること。「ことば」を挙げたのは、今の子どもたちが置かれた状況にある。「今の子どもたちは、語彙力が極端に低いんです。ハイコンテクストな社会で暮らしているから、言葉を使わなくても割と生きていけるようになっているのですが、その弊害はあまりにも大きい。言葉って結局は抽象概念じゃないですか。その抽象概念を理解できるかできないかの境目は9歳ごろと言われていて、その“9歳の壁”を越えられない子が今すごく多いらしいんです」9歳の壁とは、具体的な体験をもとに抽象的な考えを理解できるようになる転換点のことだ。身体感覚に紐づいた形で語彙を増やしていくことで、やがて抽象概念においても抽象を理解できるようになる。机上の暗記だけでなく、暮らしや体験に根ざした具体性こそが、その壁を越えるために必要だ。これは、食を教材にすることとも繋がっている。生徒数は72〜90人を想定している。この規模にした理由は2つある。私立として単年赤字にならない最低ラインであると同時に、人が人らしく暮らせる最小単位でもある、と考えているためだ。 「地方の人々が中央首都圏に集中する。それはフラクタルで、例えば霧島市でみても山間部の人々が霧島市街地に集まっているんです。人が減ったところは人が減ったなりの課題が出てきて、人が増えたところは増えたなりの課題が出てきます」 人口が集中したいわゆるマンモス校では、丁寧なマネジメントが行き届かず、機械的に処理するようになるそうだ。マニュアルに当てはめられた子どもたちは、同質性が高いという。 「自分を世話するのが仕事の両親、自分に教えることが仕事の先生、同級生、以上。家と学校と塾の往復+SNSとゲーム。座っているだけで楽しませてくれるものばかりになってしまっている中で、同じような集団が20クラスもあると、子どもたちのコミュニケーション能力や、違うものを受け入れる力が育つ機会はほとんどありません」核家族化によって、病気や死といった人生の節目を身近に感じることも少なくなった。そして、鹿児島にどんな企業があるのか知らぬまま、若者は都会へと流れ続ける。自分はどうしたいのか、自分にやれることは何なのか。自分で考えて行動する力をもたなければ、楽ができて高い給料がもらえる仕事を、若者たちが選んでしまうのは、構造上、仕方がないのかもしれない。「今の日本の教育は、お腹がすいていないのにご馳走を与えるような感じ。これを知りたい、学びたいという動機がないままに、次は掛け算です、次は分数ですと、一方的に浴びせ続けられます。そうじゃなくて、できるだけいろいろな世代の人たちと触れ合い、暮らしの中に問いが生まれ、それを解決するための教育が小中学校の基礎教育なのだとしたら。これを修理したい、これをつくりたい、そういった問いがあって、その答えを導くための学びだったら、子どもが自ら気づいてどんどん力をつけていきます」地域の役に立ちながら、同時に学びを得る機会に[caption id="attachment_12047" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 写真提供:古川さん〉[/caption]保育園も小学校も、当然親が関わってくる。これが、地域づくりの大きな役割を果たすという。「若い世代が物理的に毎日来る仕組みがあると、必然的にその範囲内はサステナブルでいられます。地方創生に巨額のお金が投じられてきましたが、わかったことはどれもこれも焼石に水だったということ。だから、大変かもしれないけど、もっと本質的なことに立ち返ることが大切なんじゃないかなって思うんです。小学生なら親御さんと移住して来る場合もありますし、地域に関わる機会も多いので、小学校をつくることには何重にも意味があります」今はまだ車を運転ができても、いずれコンビニに買いに行くのも難しくなる高齢者を見越し、地域の人たちはもちろん、誰でも利用できる給食室兼食堂をつくる予定だ。利便性も考慮し、近隣地区で募集がある簡易郵便局を新留小学校におけないか交渉している。そこに図書スペースも併設し、地域の人たちが集える拠点にする。工夫の種が次から次へと蒔かれていく。「なんといっても地域の方の協力がすごく大切です。私たちに何かできることはありますか? と聞いたら、運動会や盆踊りを復活させてほしいとおっしゃって。それで、まだ開校もしていないのに、去年“第0回運動会”を開催しました。他にも、苗箱を運ぶ、機械ではできない部分の代掻きをする、米俵を運ぶといった力仕事をやってくれると助かるという声もあります」[caption id="attachment_12041" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 第0回運動会 写真提供:古川さん〉[/caption]知識や資格がなくても、人手があればできる仕事は地域に多い。保育園や小学校には、職員、保護者、子ども、そしてそれを応援してくれる人たちがいる。田植えも稲刈りも地域のお祭りも、やろうと思えばなんでもできる。「地域の人たちに集まってもらって交流会を催すより、この地域で暮らす上で必要なことや、できることに一緒に取り組めば、地域の役にも立てるし、自然と子どもたちの学びにもなると思います」社会を変えるかもしれない、“ふつうの学校”の潜在能力[caption id="attachment_12042" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「新留小学校設立準備財団」共同代表の3人。古川理沙さん(右端)、丑田俊輔さん(左端)、古川さんの娘・瑞樹さん(中央) 写真提供:古川さん〉[/caption]この10年くらいで、日本にはいろいろな特徴を持つ学校が誕生した。また既存の学校の中には見事に変革を遂げた成功事例もある。しかし、才能高きひとりの教師の手腕で変革を遂げた結果、その先生がいなくなると揺り戻しが起きるというケースもあるという。 「他にも、日本のクリエイティブ層だけしか行けない学校や、何かひとつに特化した学校。私はそれぞれいいと思うのですが、ほとんどが“マッチョ”な例だと思っていて。新留小も私立なので、救済措置をつくろうとは思っているにせよ、経済的にものすごく困窮している家庭の子が通えるわけではありません。だったら、これだけ国で教育に予算をかけて、これだけの国民が公教育に通っているのだから、公教育にちゃんと染み出していくような教育がしたいと思ったんです。それならうちでもやれるねって思えるようなモデル。だから、“ふつうの学校”」複数の課題にそれぞれ可能性を見出し、ひとつのソリューションで解いていく。食を中心にすることで、様々な問題の解を見出した「ひより保育園」と同じだ。ここでは新しい発想に見えても、多くの人ができること。それが公教育にも広がっていけば、生きる力をもち、自分の頭で考え、可能性を自ら引き出す子どもたちが全国で増えていく。工夫の種が瞬く間に芽を出し、ひとつまたひとつと花を咲かせていく未来が見える。[caption id="attachment_12043" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 写真提供:古川さん〉[/caption]「ひより保育園も、“ふつう”さを大事にしていて、特技のある先生をあちこちからヘッドハントするのではなく、園に通える距離にいるごく普通の先生たちを採用してきました。普通の先生たちが、自分たちの工夫の範疇でより良い保育をする。このモデルにこそ価値があると思うんです」このモデルは、のちにグッドデザイン金賞の受賞をもたらし、ひより保育園をそのままコピーしたような保育園も現れた。ただし大事なのは、表面的なものではなく、本質的なことを受け継いでいるかどうか。ひより保育園を起点とした運営の必要性も頭をよぎる。新留小学校をつくるためには7億円が必要だ。しかし、このモデルは公教育に応用することができる。全国で年間約500校が廃校へと追い込まれている現状において、もしこのモデルが確立すれば、公共予算を活用することで追加コストなしに展開していくことができるのだ。学校法人は非営利法人であり、株式会社のように投資や出資を受けることは制度上認められていない。また、設立審査において融資による資金は、安定した財源として認められないため企業版ふるさと納税や公益財団の協力、個人からの寄付で設立資金を募っている。「小さな学校と地域での挑戦が、すぐに世界を大きく変えるわけではありません。けれども、新留小学校が息を吹き返すことは、教育のシステムチェンジへ向けた確かな一歩となり、学校を起点に持続可能な社会へと近づいていくモデルになると考えています」今はたぶん、〈普通ではない学校〉だ。しかし、その教育が社会に染み出し、川となり、海となった時、子どもが自ら力を育む“ふつうの学校”は、全国にある普通の学校になるのかもしれない。撮影:NOBU]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[「大好き」という感情が後押しする、五木村「日添」土屋望生の地域づくりの本気]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/tuchiyanozomi</link>
    <pubDate>Thu, 28 Aug 2025 21:00:41 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[村の面積は約250平方キロメートル。その96%が山林で、わずかな平地に集落が点在し、まさに肩を寄せ合って村人が暮らしている。近所のコンビニまでは、車で約40分。「ちょっとコンビニ行ってくる」と家人が出かけたら、1時間半は帰ってこない。村を出るまで信号は1基もなく、夜のドライブで車を止めるのは、たまに現れる野生の鹿。そんな村、熊本県球磨郡五木村が、株式会社日添の土屋望生さんのふるさとであり、現在の活動拠点だ。[caption id="attachment_11890" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]土屋さんの活動について説明しようとすると言葉に詰まる。この人は、〇〇をする人です、とはっきり伝える適切な肩書きが見当たらないのだ。土屋さん自身もそのようで「私って何をしている人なんですかね」の言葉には、謙遜でも何でもない、役割に境界線を引かず、できることを尽くしてきた証でもある。「地域づくりの文脈で仕事をしているとよく聞かれることがあるんですよね。土屋さんって、五木村が好きなんですか、と。正直な話、五木村は好きでも嫌いでもない、普通です(笑)。土地が好きなのではなく、私は五木村にいる人たちが大好きなんです。もし何らかの天変地異があって五木村の人たちが別の場所に引っ越すことになったら、私は迷わずそこについていく。それが活動の原動力になっていることははっきりしています」インタビュー中に、土屋さんは何度も、何度も「大好き」という言葉を発していた。向けられているのはモノや場所ではなく、いつも人。そう、土屋さんのことをもし一言で伝えるならば、「大好きな人たちがしあわせになるために行動する人」なのだろう。[プロフィール name="土屋望生" message="つちや・のぞみ/株式会社日添 取締役。1993年熊本県球磨郡五木村生まれ。小さい頃から地域の人の生活の術や技を吸収しながら、すくすくと、逞しく、地域の人から育てられてきた。大学時代、一般社団法人フミダスの活動に参画。その活動を通して、熊本の起業家と接し、刺激を受け、出身地である五木村のために働きたいと思うように。2015年に修行先としてNPO法人ETIC.に就職。地域活性事業の事務局、インターンシップなどのコーディネート業務を経験し、「3年で修行を終えて、五木村に帰る」との宣言通り、2018年に五木村にUターンで帰り、株式会社日添を立ち上げた。"]リスクを自らに課すことで、運命共同体になる2018年に立ち上げた株式会社日添は、熊本県球磨郡五木村を活動拠点とする地域づくりを支援する事業を展開している。土屋さんはそこで、五木村の事業者や行政、教育機関との連携など、地域コーディネーターとして多方面に関わってきた。設立から7年。現在では日添を含め、3つの法人組織と1つの任意団体の運営に携わっている。会社設立当初に掲げていたのは「五木村の生産年齢人口の年収60万円アップ」と「村民一人ひとりがひとつ以上の楽しみを持つ」という2つの目標だった。[caption id="attachment_11875" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]土屋さんがこの2つのことを目標に掲げたのには理由がある。それは、【「稼ぎ」と「楽しみ」があれば、人はそのまちに住み続ける】という仮説の存在。都会をめざす人の心情としては、「田舎よりも何となく稼げそう」「大企業に就職した方が安定しそう」と、どこか確証のない、ふんわりとしたイメージが根底にある。であれば、この「稼ぎ」を担保できるような状態を五木村につくることで、住み続けたいという人が増えるのではないか。その仮説を検証するために、すべての事業に取り組んでいるという。「年収60万円アップの根拠は、当時の熊本県合志市の生産年齢人口の年収を参考にしました。人口の規模も、市域にある企業の数も違いますが、自然豊かなちょうどいい田舎で、昔から根付いている住民も多い。ただ、今の合志市は半導体製造の拠点になって栄えてきているので、掲げている目標もそろそろ更新しないといけないなぁ、と思っているところです」「稼ぎ」と「楽しみ」を事業の目標を掲げたからには、自らがそれを実践しないわけにはいけない。日添の立ち上げと同時に、村内の事務所とする建物の1階に「カフェみなもと」をオープン。使われていなかった古民家を学生や地域の人々とほぼ手づくりでリノベーションし、愛着のある場をつくった。[caption id="attachment_11891" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「カフェみなもと」は2025年8月現在は休業中。この場を活用してくれるオーナーを募集している。 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]五木村で「稼ぎ」を生み出すカフェを運営することで、自らが経営者として苦しみ、利益を生み出すために知恵を絞る。あえて自分たちにリスクを課したのは、その経験こそが本気で事業に取り組む証になると考えたからだ。「地域づくりは、村の事業者さんと一緒に取り組むこと。だからこそ、自らが商売をして、苦しむ経験をすることが大事なんじゃないかと。運命共同体になることが、信頼を得ることになると思いました」土屋さんにとって五木村は、生まれてから中学校卒業まで暮らしていたふるさとである。五木村で生まれ育った子どもたちはほとんど、中学校卒業と同時に村外に出て、進学でも就職でも別の地域で暮らすことになる。土屋さんも例にもれず、中学卒業後に五木村を出て、高校、大学、仕事先も村外で過ごした。日添を立ち上げるため五木村に帰ってくるまで10年間のブランクがある。村の人たちにとっては、「土屋さんのとこの娘ののんちゃん」が、五木村で事業を展開する経営者として帰ってきたわけだ。周囲も「あの、のんちゃんが村に帰ってきた!」と「これから村で何をやるんだ」という複雑な気持ちが混じりあい、戸惑いの目を向けていたに違いなかった。[caption id="attachment_11873" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]劣等感が突き動かした「何かやらなきゃ」「なぜ、まちづくりに?」「なぜ、五木村?」「どんな活動を?」。そんな問いを幾度となく投げかけられてきたであろう土屋さん。その原点は、大学時代のある経験にあった。「まず大学受験が思い通りにいかなかったこと。あのときの劣等感が私の行動の原点にあります。いい大学に進学した同級生を横目に、何かやらなきゃ、という焦りがあったんですね。不本意ながら進学することになった大学は、地域に根ざした活動が多く、フィールドワークも盛んだった。でも、当時の私は地域活性化などに全く興味がなかったんです。だからこそ、大学の外に活路を求めたんですね」もっとも、外に活路を求めていたとはいえ、明確な目標があったわけではなく、「何かしなきゃ」という衝動だけが先走っていた。そんな折に出会ったのが、熊本で実践型インターンシップを展開していた一般社団法人フミダス(当時は企業の一事業として運営)だった。[caption id="attachment_11889" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 「あなたの学生生活 本当に、それでいいの?」と書かれたポスターの前でプレゼンをする学生時代の土屋さん 提供:土屋望生〉[/caption]「大学1年生のとき、フミダスの学生向けイベントを手伝ったことがあったんです。そのお礼にと食事会に誘われて行ってみたら、実は次の事業展開のミーティングで(笑)。そこで学生スタッフとして参加しないかと誘われて。食事をごちそうになった手前、断りきれずに『やります』と答えてしまった。それが、私の人生を狂わせた瞬間でしたね」1年後、フミダスは社団法人として独立。土屋さんは事業立ち上げから関わる学生スタッフとなり、熊本県内の起業家たちと出会った。強い意思とぶれない軸を持つ起業家らの姿に憧れつつも、「自分とは別世界の人たち」と、どこか距離を感じてもいた。大学3年生のころ、卒業後の進路を見据えつつ、フミダスの学生スタッフとして活動しながら、熊本の老舗メディア「タウン情報クマモト」(通称タンクマ)でもアルバイトを始めた。タンクマは地元なら誰もが知る人気情報誌で、学生にとっては憧れの職場。取材や編集の補助など、誌面づくりの現場を間近で学べる日々は刺激に満ちていた。3年前期には必要な単位をほぼ取り終えていたこともあり、このままアルバイトからインターンへ、さらに就職につなげられたら――そんな青写真を描きながら、忙しくも充実した時間を過ごしていた。しかし、一直線には進まないのが土屋さん。興味のなかった地域のことに、強く引き込まれるきっかけとなる“事件”が、思いがけず訪れることになる。思い立ったら「やっちゃう」しか選択肢はないある日、同郷の親友と居酒屋で飲んでいた時のこと。たまたま隣の席から、五木村に建設予定の川辺川ダムに関する話が聞こえてきた。ちょうど建設の是非を巡って揺れていた時期であり、しかも自分たちのふるさとの話題だ。いやでも耳が傾く。「その時の大人たちがたらたら語る愚痴を聞いていて、モヤモヤした気分になったんです。愚痴自体が許せないのではなく、その大人たちが誰かのせいに、何か物理的なもののせいに、自分たちでない何かのせいにしようとしていることが悲しくなって。その人たちは、何かアクションできる立場なのかもしれないのに、と思ったら悔しくて。それを一緒にいた親友に話すと、返ってきた言葉が衝撃的でした」――「お前もそうじゃん」靴に入った小石のようにチクチクと。その一言が頭の中でいつまでも残った。誰かのせいにせずに、私ができることは何だろう。その思いが、頭から離れなくなっていた。ちょうどその時、バイト先のタンクマでは、就職試験の面接まで進んでいた。もう首を縦に振れば、おそらく決まる。しかし社長面接の場で、彼女は「正直」に言ってしまった。「将来は五木村に帰って、五木村のことをどうにかしたいと思い始めてしまいました。でもタンクマで働きたい気持ちは本当です。どうしたらよいか、正直悩んでいます」翌日、社長から呼び出された。「今までタンクマで働きたいという人には何千人と会ってきたけど、五木に帰って五木をどうにかしたいと言った人には初めて会いました。迷っていることもすごく伝わりました。だから、不合格です。うちの会社の合格がなければ、迷わず進めるでしょう? これは前向きな不合格です」その言葉が、土屋さんの背中を力強く押した。今も社長からもらった言葉を、心の底から感謝していると土屋さんは語る。さて、前向きな不合格通知を手にしたものの、モヤモヤを抱えたままの土屋さんは、フミダス代表・濱本伸司さんに相談してみた。そうすると、返ってきたのは極めてシンプルな答えだった。「そんなに気になるんだったら、やっちゃえばいいんじゃない」まずは「何をやるか」を探し、そして動く。それだけの話だろう、と。「何をやったら五木村のためになるんだろうと考えてみたものの、ゼロイチのクリエイティブな発想が超苦手。だったら、その発想の最先端のものをパクリに行けばいいんじゃない、という答えに辿りついたんですよね」その学びの場として頭に浮かんだのが、当時フミダスともつながりのあったNPO法人ETIC.だった。人材育成のプログラムでお世話になってはいたが、正直なところ、何をしている団体なのか深くは知らなかった。ただ「最先端がそこにある」という確信だけはあった。決めたら、もう動くしかない。“やっちゃう”しかないと、心が決まった瞬間だった。地域の名プレイヤーとの切磋琢磨した3年半ETIC.に行く――そう勝手に決めた後に、ETIC.がそもそも新卒採用をしていないことが発覚した。だが、土屋さんは後に引けず、前へ進むしかない状況だった。どうにか働かせてもらえないだろうか。前例の少ない中でETIC.側が提示した新卒採用条件は二つ。「半年間インターンとして働くこと」と「すでに内定を1つ以上得ていること」だった。半年間のインターンはまだしも、内定はつい先日、自ら手放したばかりだった。「フミダスの濱本さんにそのことを相談すると、あっさりとフミダスから内定をもらえました。それは、濱本さんからの『行ってこい』のメッセージです。そこからETIC.でのインターン生活がはじまりました。期間中の半年間はずっと東京でしたが、大学のゼミの先生は“卒論提出と卒業アルバム撮影に帰ってくること”を条件に送り出してくれたんです。本当に人に恵まれた人生で、人に支えられてどうにか生きています(笑)」ETIC.のインターン時代は、地域コーディネーター養成講座の一環で、地域企業がインターン生を受け入れるために学生を集客する事務局を担当。学生向けの「地域ベンチャー留学プログラム」でマッチングイベントを開催し、参加した学生にヒアリングを行い、企業とつなげる役割を担った。折しも「地方創生」という言葉が注目され始めた時期。全国各地で地域企業と学生をつなぐ仕事は、まさに土屋さんが思い描いていた最先端の学びだった。「インターンを終え、奇跡的に正社員として採用されました。社会人としての初出勤は高知県四万十町への出張先。そのときに車内で流れていた音楽まで覚えています。ETIC.は“チャレンジ・コミュニティ・プロジェクト(チャレコミ)”の事務局を担っており、地域の名プレイヤーと呼ばれる人たちと出会う機会が多くありました。今でも情報交換できる、大好きで尊敬する師匠たちです」全国を飛び回りながら、「まちづくりとは」「地域活性化とは」「地元を愛するとは」――さまざまな視点で語られる哲学に触れた。各地の課題やコーディネーター業の難しさも肌で知り、意思を持ち、それを次の意思ある人へつなぐことの大切さを学んだ。上司たちは、五木村というフィールドで活きる経験を惜しみなく与えてくれた。「とにかく、ETIC.が大好きで、先輩たちが大好きで、離れたくない気持ちがありました。でも、3年で辞めるというわがままを受け入れてもらった以上、決めたことは貫くしかない。五木村でこの経験を活かす。それだけです」“カッケー”人たちのやりたいことを、借りて生きている[caption id="attachment_11878" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]東京で最先端のノウハウを学び、2018年に帰郷。日添を立ち上げ、地域コーディネーターとして活動を開始した。最初に取りかかったのは、拠点となるカフェを開き、人が集まる場をつくることだった。村の人と運命共同体になる準備を整えつつ、村にある財産に目を向けた時に、改めて気付いたことがあったという。都会では、お金があればたいていのものは手に入る。一方、五木村ではお金が潤沢にあったとしても、使う場面が少ない。都会なら一瞬で使える10万円も、村では一日で使い切るのは至難の業だ。お店も少なく、買えるモノの選択肢も限られている。だからこそ、欲しいものがあれば自分でつくるしかない。「五木村の人たちは、欲しいものをつくることができる知恵やスキル、アレンジ力を持っているんです。大工仕事なんてお手のもの、趣味ではちみつをつくっているおじいちゃんもいれば、食べるものは大抵のものを自作する。それを無意識でやっていることが五木村の人たちのすごいところ。何かを生み出す人って、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか」取材中は少しかしこまって話をしていた土屋さんだが、ふだんは五木村の人のことを、彼女は「カッケー人たち」と表現する。その「カッケー人たち」を村の魅力として多くの人に知ってもらいたい。そんな思いから、五木村の産物を選びやすい形で売り出すために、サイズやデザインにこだわった商品も展開した。次に必要なのは、村の人からの「信頼」だった。どうすれば信頼を得られるのか。模索する最中、2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが襲う。外出制限の中、観光のかき入れ時であるゴールデンウイークに観光客が来ない。村の事業者にとっては死活問題だった。どうにかしなきゃ、と打ち出したのが、『旅するおうち時間』というオンライン企画。外出や旅行が制限される中、全国の“地域コーディネーター”仲間に声をかけ、旅ができない人へ地域の魅力を届ける方法を練った。たどり着いたのは、各地から“おうち時間を豊かにする商品”を日替わりで届けるプロジェクト。企画からウェブ制作、ローンチまでわずか5日間。話題を呼び、各地の事業者の売上にもつながった。これを機に、「日添はこういうことをしてくれる会社」という村人の理解が広がった。村役場からの依頼も増え、産地直送便の企画などを通じて事業者との距離も縮まる。日添の「やれること」と村が求める「やりたいこと」が重なった瞬間だった。「コーディネート業務は、人と人のマッチングだけでなく、仕組みや、企業とのマッチングなど、多岐に渡ります。何をマッチングすればよくなるのかを考えることなのです。例えば、ウェブをつくりたい事業者さんがいたら、プロジェクト付きのワーケーションを実施して、取材してライティングをするプロに滞在してもらったこともあります。ネットショップの売上強化のために、副業人材を募集してプロジェクトを立ち上げ、大手メーカーや通販会社のプロを集めたこともあります。実際このプロジェクトによって事業者さんの売り上げ向上につながりました。誰かのやりたいことをガソリンにして、私は動いているんですよね(笑)」村内外に広がりを見せる共創人口[caption id="attachment_11879" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]「今ですね、五木東京支部というサークルみたいな集まりができていて。五木村に関わったことがあるOBOGが集まる五木村ファンクラブみたいなものです。昨年はわざわざ五木村まできて、秋の祭りでブースを出店してくれました。村の特産品を材料にした商品まで考えてくれて。これって、まちづくり界隈でいわれる“関係人口”ですよね。私は、この関係人口のことを“共創人口”と考えているんです」日添が運営する組織は、現在3つの法人と1つの任意団体。その新たな任意団体「五木村過疎未来研究会」では、この共創人口を増やしながら、村が抱える課題に挑んでいる。テーマは商業観光、産業林業、教育子育て、医療福祉、移住人材の5つ。村民、民間事業者、専門家が協働で課題を整理し、実行へつなげる。平たく言えば、村のことを村内外の人たちで知恵を持ち寄り、動かしていく場だ。[caption id="attachment_11887" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]この活動には、大企業の人材も“越境研修”という形で参加している。企業側にとっては、自社事業とは別の地域プロジェクトに関わることで、多角的な視点を養う人材教育の一環。五木村にとっては、外からの知見と行動力を得られる。双方にとっての、いわばウィンウィンな関係だ。「たとえば商業観光チームでは独自の五木村ツアーを企画して実施し、稼ぎのめどが立ってきたので、次はDMO(観光地域づくり法人)創設の話も出ています。教育子育て分野では、部活動の廃止や小中一貫教育の導入といった課題に対し、保護者の声を取りまとめています。中には研修後も自費で五木村に通ってくれる方もいて。本当にありがたい。共創人口が確実に広がっている手応えがあります」[caption id="attachment_11874" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]土屋さんは「クリエイティブな発想は苦手」と繰り返し言う。しかしゼロから何かをつくる人、その熱意を注ぐ人への敬意こそが、自分を突き動かす原動力だという。大切な人たちがいるから、手は抜かない。そんな思いを自らに刻むように、活動時は日替わりで村の事業者のTシャツを制服代わりに着る。背中にあるのは、五木村の名前と誇りだ。[caption id="attachment_11894" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 提供:土屋望生〉[/caption]自分が暇になる、それが大きなビジョン日添を立ち上げてからこれまで、土屋さんは「稼ぎ」と「楽しみ」という目標は持っていても、大きなビジョンはあえて掲げなかった。「振り返ってみると、日添を立ち上げた当時も、今も、自分には明確に描いている未来があるわけではないっぽい。7年前の私は、今こうやって会社や団体をこんなに立ち上げているとは間違いなく思ってないでしょうね(笑)。それは、思っていた未来とは違う世界。ビジョンを描きすぎると、それを村の人たちに押し付けたり、迷惑になってしまうこともある。そんなことはやりたくなかったし、私は何気ない、いい日常を、もっとよくしたいだけなんです。自販機の前でばったり会って、立ち話したり。車ですれ違う知り合いに手をふることだったり」そう語る土屋さんは言葉どおり、村の人たちの“いい日常”をもっとよくするために、ふだんは自分が表立って、目立つことをしたがらない。それはビジョンをあえて掲げないことにも通じるが、自分に引っ張られて、村の人たちの“いい日常”を壊したくないという気持ちが大きいからなのだろう。[caption id="attachment_11876" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]もちろん、五木村は多くの課題を抱えている。少子高齢化、医療や福祉の問題、過疎化、産業振興…。一朝一夕に解決できるようなものでもない。だが、土屋さんは言う。「地域が抱える課題は、五木村に限ったことではなく、全国どこでもそうかもしれません。もし、不安とか、希望とか、そういうものが数えられるならば、希望の方が1個でも多ければいいと思う。不安を希望に変換することはできないけれど、希望を多くすることだったらできる。将来いつまで商売できるんだろう、という不安があれば、ここで商売が続けられそうだな、と思える希望を感じられるように行動する。だからこそ、新しいことをどんどん仕掛けていくことよりも、今できることを続けることが大事だと思っています。敢えてビジョンをつくるなら、自分が暇になること、かな。何もしなくても、希望の数が増えればいいな、と」今、村にあるもの。今、村で動いていること。それを愚直に取り組んで、事業をまわしていくことが大事だと語る。その時、その時に、村の人のためになることを考えて、やわらかに役割を変化させてきた土屋さん。その中には、どう押しても引いても動くことのない芯がある覚悟が見える。[caption id="attachment_11880" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 撮影:山口亜希子(Y/studio)〉[/caption]]]></description>
          </item>
    <item>
    <title><![CDATA[歴史と文化の新たな模様を織りなす、平戸「たねのわ搾油所」青木陽馬が伝える食文化]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/aokiyoma</link>
    <pubDate>Sun, 13 Jul 2025 21:00:45 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[安心・安全やおいしさの先にある、食文化を未来に残すこと朝起きると、子どもたちの朝食を用意する。パンと牛乳、そしてソーセージに卵焼き。シンプルなメニューだからこそ、少しでも安心できる健康的な食材を使いたい。そんな気持ちで手に取ったのが、小ぶりな瓶に詰められた黄金色の菜種油。食材にスッと馴染み、自然なおいしさを引き立てるその名脇役ぶりは、毎日使うものだからこそ強く実感している。製造しているのは、長崎県平戸市に小さな工場を構える「たねのわ搾油所」。昔ながらの圧搾方式で栄養や自然な風味を残したまま抽出する油は、少しずつクチコミで評判が広がっている。今では九州はもちろん全国から注文を受けるほど。地域に根付いた食材や昔ながらの食文化が見直される中、日本の歴史と結びついた伝統的な菜種油にも注目が集まり、各地の料理人からも熱い視線を受ける。[caption id="attachment_11713" align="alignnone" width="960"] 〈▲ ベーシックな菜種油を中心に、胡麻油や椿油、油を使った加工品を製造販売している〉[/caption]しかし全国的に見ても、小規模な油の生産者はごく僅か。かつては醤油や味噌のように地域ごとの油があり、その土地の食と密接に結びついていたが、戦後の高度経済成長とともにそうした文化自体が失われてしまった。筆者自身「なるべく顔の見える生産者から」と、地元の醤油や味噌、酢、お酒などは手にとってきたが、振り返るとそこに“油”という発想がこれまでなかったことに気付く。どんなジャンルの料理であっても必要となる、身近な存在にも関わらずだ。長野県から平戸市に移住して、油屋を始めた青木陽馬さん。妻のれんげさんとともに古民家を改修し、母屋の向かいに搾油所を設けたのは2017年のこと。安心・安全でおいしい手作りの油。それはゴールではなく日々続けていく過程の一つにすぎない。本当に目指しているのは、失われた文化を、もう一度、未来に手渡していくことなのだ。[プロフィール name="青木陽馬" message="あおき・ようま。1980年、長野県長野市生まれ。高校時代の長野オリンピックで街の大きな変化を目の当たりにし、伝統文化の在り方に注目。東京農業大学に進学し、食の生産者という道に興味を持つ。卒業後にUターンした後、食品会社の転勤で長崎へ。生産者との繋がりに支えられながら、食を通じた地域の豊かさへの貢献を軸に考えて、2017年に平戸市で「たねのわ搾油所」を開業。妻のれんげさん、3匹の猫と暮らす。"]日本の暮らしと密接に結びついた菜種油長崎県北西部に位置する平戸市は、真っ赤な平戸大橋で本土とつながる平戸島と、その周辺に点在するおよそ40の島々から構成される。かつて長崎・出島が鎖国時代に唯一の海外文化の窓口になるより以前、南蛮貿易の拠点となった場所だ。中心地を一望する高台には平戸城があり、市内にはカトリックの教会が点在。辺境の地でありながら、むしろだからこそ、様々な文化や歴史がありのままの形で残っている街だ。そんな平戸市に自宅兼工場を構える「たねのわ搾油所」へは、平戸大橋を車で渡って約15分。国道から細い山道を下った先に、大きな古民家が現れる。作業の手を止めて出迎えてくれたのは、青木さんご夫婦。若干緊張した面持ちのふたりに挨拶を交わし、まずは油づくりの基本について話を聞いた。[caption id="attachment_11714" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 青木さんの暮らす母屋。搾油作業は向かいの建物で行っている〉[/caption]「菜種油とは、アブラナ科の植物から抽出された油です。加熱に強く酸化しにくい性質があり、どんな料理にも使いやすい特徴があります。日本では江戸時代から使用されるほど歴史が古く、もともとは食用ではなく夜に明かりを灯すために使われてきました。そして醤油や酒の蔵のように、その地域や村ごとに油屋があったんです」油の原料となる菜種は、かつて水田の裏作として広く栽培。搾油作業も精米業者が期間労働として取り組む側面もあったそう。「平戸藩の城下町だったこの地域にも、かつては13軒の油屋が胡麻油を作っていたみたいです。その後は菜種油だけではなく椿油も広く作られるようになって、生活になくてはならない商売だったんだと思います」そんな油屋だが、昭和以降は時代とともに全国的に減少。戦後の高度経済成長期にかけて工場での大量生産が普及し、原材料となる菜種も海外産が一般的となった。厳しい状況の中、どうして青木さんは油屋という道を選んだのだろう……そんな疑問が頭に浮かんだころ、「そろそろ搾油の準備ができました」と声がかかる。話の続きを聞く前に、まずは搾油の現場を見せてもらうことにした。時間と手間を惜しまない、昔ながらの搾油作業建物内のコンパクトな空間に、大きな薪釜と見るからに年季の入った搾油機が一台ずつ並んでいる。「今日は浅煎りの胡麻油を作りましょうか」と、十分に熱した釜に大袋に入った胡麻を一気に投入する青木さん。時折、木のヘラでかき混ぜたり、手で触って温度を確認しながら、ゆっくりと加熱していく。少しずつ香ばしい香りが広がってきた。 炒りあがった胡麻を試食させてもらうと、ほんのり落花生のような風味。これを搾油機に入れて、機械で圧力をかけて油を絞っていく。少しずつ落ちてくる油には微小な外皮が含まれているため、約1週間かけて自然に沈殿させた後、上澄み部分のみ紙で濾して瓶に詰めて完成する。あんなにたくさんの胡麻から搾り取れる油は、大きなバケツの半分くらい。実際の工程を目の当たりにすることで、手作業の苦労と油の貴重さが伝わってきた。[caption id="attachment_11718" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 圧搾機は戦後あたりに作られたもの。手入れをしながら大切に使用している〉[/caption]「基本的な作り方は江戸時代と変わりません。昔は石を積んだり、鑽を打ち込みながら締め上げたりしていましたが、物理的な圧力で潰して搾油する原理は機械も同じです」 時間も手間もかかる、昔ながらの搾油作業。それでも青木さんがその工程にこだわり続けるのは、フレッシュで風味豊かな油を味わってほしいという気持ちからだ。「例えばヨーロッパには地域ごとのワインやオリーブオイルがあり、その土地の食を楽しむ上で欠かせない存在ですよね。日本においても同様で、平戸という土地ならではの味を作り上げてきたのは、地元で獲れた魚や野菜、そして地元で作られた調味料です。もちろんスーパーで販売しているサラダ油が悪いわけではありません。しかし地域の作り手がいないと、出せない味があると思うんです」古くから受け継がれた味が消えていくのを放っておけない──そんな想いの背景には、彼自身がかつて目にした、ある“風景の変化”がある。街が変化する中で、消えるもの、残るもの長野県長野市の郊外で生まれ育った青木さん。のどかで自然に囲まれた環境だったが、高校時代、その景色は大きく変わりはじめた。1998年の長野オリンピック開催に向けて、県内では大規模なインフラ整備や都市開発が進行し、街の風景が一変したのだ。その一方、地元の人にとっては素朴で日常の延長上にあるものが、県外の人にとっては新鮮で高く評価される様子も目にした。たとえば、今や全国区となった「いろは堂」のおやきや、善光寺参道の名店「八幡屋礒五郎」の七味唐辛子など。急速な変化の中でも、地域に根ざした文化が力強く残っていく様子が印象深く映った。文化の多様性と経済性の両立は、青木さんにとっての大きなテーマの一つとなる。「見せ方やアプローチを変えることで、地域の伝統的なものに再び光を当てることができるかもしれない。そうすることで、経済的に成立させながら文化の多様性を守ことができるんじゃないか。そんな風に考えるようになったんです」高校卒業後は長野を離れ、東京農業大学に進学。国際食料情報学部を選択し、自然環境と地域文化の在り方について学びを深めていった。中でも、青木さんのその後の人生に大きな影響を与えたのは、伝統産業の後継者として地元に戻る仲間たちの存在。「違う学部ではあったんですけど、酒蔵や醤油蔵などの跡取りがたくさんいたんですよ。東京で新しい感性を学んで、それを持ち帰って地域に貢献するんだ!! という熱量がすごかった。そういう姿に触れて、自分もいつか食の生産に関わりたい、地域の中で文化や暮らしを支える仕事をしたい、と考えるようになりました」卒業後は一旦地元に戻った後、改めて「食」を広い視点で学ぼうと決意。きのこの生産・販売を手がけるスタートアップに転職し、生産から流通、販売までの全体像を肌で学んだ。やがて、その会社が長崎県西海市に新事業所と工場を設けることになり、青木さんが責任者として派遣される。こうして新たな土地での暮らしが始まった。「長野で出会った妻が宮﨑出身だったこともあり、九州への転勤には家族で前向きに臨めました。実際、長崎は自然が豊かで、生産者もたくさんいて、本当にいい場所だと感じました」仕事は順調に進んでいたが、青木さんの心の奥には、「文化と経済の両立」という高校時代からのテーマが再び灯りはじめていた。「地元のために何ができるのか。食の生産を通じて、どんな価値を残せるのか。いろいろ考えた結果、やっぱり自分の足で立って挑戦したいと思ったんです。他のスタッフで工場や事業所を運営できる目処がついたタイミングで退職することを決意。このまま長崎に生活拠点を置きつつ、生産者として新たな一歩を踏み出すことにしました」[caption id="attachment_11721" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 妻の青木れんげさんも農業に携わった経験があり、食に対する関心が二人の共通点に。平戸に移住後、油屋が軌道に乗るまでは地元の図書館で働いて家計を支えていたそう〉[/caption]油屋になることを、面白がってくれた仲間たち食と文化が地続きになるような場所で、自分なりの仕事をする。そう心に決めた青木さんだったが、生産者としてゼロから事業を立ち上げるのは容易なことではない。そんな挑戦に、力強い追い風を与えてくれたのが、長崎で出会った仲間たちだった。農家や豆腐屋、味噌屋、器屋。食に関心を持って県内各地のイベントに足を運ぶうちに、地域の伝統を自らの手で守り育てる同世代の生産者と出会い、人から人へとつながりが広がっていった。「まだ具体的な目処はついていなかったんですけど、その頃にはもう油屋になろうと決めていて。菜種や胡麻の粒が入った袋を添えた名刺を配って、『この種が育つ頃には油屋になります』なんて言って回ってました(笑)。実際はそこから何年もかかってしまったんですけど、そういう話を、みんな面白がって受け入れてくれたんです」新しい場所で自分からアクションを起こしたことについて「移住者なので、そもそも長崎はアウェイの状態からのスタート。早く溶け込みたいし、早く知り合い増やしたくて」と笑う青木さん。人を知ることが、その土地を知ることにも繋がっていった。そもそも、なぜ油屋だったのか。青木さんは、「どれだけ地域の食の豊かさの増加に寄与できるのか」という基準で選んだと語る。豊かさの指標の一つは、その地域ならではの食文化の“幅”だと捉えている。「地方で商売するなら、日持ちして日常的に使える調味料がいいと思っていたんですけど、平戸市にはすでに醤油や味噌、みりん、塩を作っている方がいました。せっかく始めるなら、既にあるものではなく、この地域にないものを作りたいと思ったんです」東京農大時代に見出した、食の生産者というテーマ。家業を継ぐ立場だった多くの友人とは異なり、ゼロから道を切り開く青木さんにとって、地域にないものを選ぶのは、ある種の必然だったのかもしれない。平戸市という場所に辿り着いたのも、人との繋がりがきっかけだった。県内の生産者との交流の中で、平戸で海水から手作りで塩を製造する「塩炊き屋」の今井弥彦さん、そして自家焙煎のコーヒーショップを営む「マメルクコーヒー」の杉山稔典さんから、平戸での開業を勧められる。「色々悩みましたが、単純に誘ってもらえたことが嬉しくて」と話す青木さん。業種は違えど、身近に相談できる存在がいることは大きな心の支えとなった。物件は「マメルクコーヒー」の常連客から情報をもらい、ちょうどいい大きさの古民家を発見。かなりボロボロでしたよ」と笑顔で振り返る青木さん。荷物の掃除から建物の改修まで、夫婦ふたりでほとんどを行った。「最初はお金をかけて人にお願いするしかないと思い込んでいたんですけど、長崎で知り合った友人には、お店をセルフビルドした人が結構いるんです。それで立派に商売が成り立っていて、あ、そういう選択肢もあるんだなって思えたんです」分からないことはなんでも人に相談。少しずつ準備を進めて、平戸に移住してから3年後に念願の「たねのわ搾油所」を開業。待ちに待ってくれた生産者仲間たちが最初のお客さんとなってくれた。平戸の食文化の一つとして、伝え残していくこと[caption id="attachment_11724" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 同じ長崎県の五島列島と同様、平戸市でも椿の花が広く咲いている。100%地元の椿を使った椿油は、その年の収穫量や品質に合わせて搾油作業を微調整するそう〉[/caption]油屋を始めた当初から、青木さんの思考の軸は一貫している。それは「地元の食文化の一部として、油を絶やさず作り続けること」だ。「事業として成立しなかったとしても、他の仕事をしながらでも搾油は続けようと考えていました。月に一度でもいい。そういう気持ちでスタートしたんです。今の世の中って、完璧にこなすことが“プロ”の条件みたいになっていますけど、日本には本来、“どれだけ続けられるか”を重視する文化もあると思うんですよね」その文化を「伝える」ことも、もう一つの軸となっている。「たとえば自分が買い手だったとして、商品そのものだけじゃなくて、“どこで、どう作られているか”がわかった上で買った方が、きっと楽しい。それは酒蔵でも醤油の蔵でも器の窯元でも一緒です。商品を介して、その背景にある文化に触れてもらえたら嬉しいし、そうした接点を少しでも増やしていきたいと思っています」[caption id="attachment_11725" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 地元の小学生の職場体験学習を受け入れている青木さん。「伝える活動は、まだようやくスタートラインに立ったところですね」(提供写真)〉[/caption]商売として成り立たせるための苦労は、開業当初から尽きない。「開業前に熊本と岩手の油屋を訪ねて見学したんですけど、機械や環境が違えば製造方法も変わります。だから学んだことを、そのまま持ち帰ることもできず……思い通りの焙煎ができるまでは時間がかかりました」販路の開拓も一からの手探り。経営計画すら立てにくかったという。「味噌や醤油の世界では、若手の生産者が新しい提案をどんどんしています。でも油の分野では、若い人たちが受け継ぐ前に文化が途切れてしまった。今、40代の僕が“最若手”くらいなんです」コロナ禍では販売数も落ち込み、西の端という地理的条件も「ネットがあるから大丈夫、とは簡単に言えない距離なんですよね」と青木さん。事実、イベント出店や発送業務にも大きな労力がかかる。それでもなんとか続けられたのは、周りの人のあたたかさがあってこそ。「開業前の準備期間、貯金は減る一方だし段々と焦るじゃないですか。でも長崎ってどこかのんびりしていて、みんないつかはできるみたいな感じだったんです。今もそうした感覚に救われている部分はあります」地域に受け継がれた歴史という縦糸に、自分たちの新しい生業という横糸をかけ合わせる平戸市は2022年12月にイタリア発祥の「アルベルゴ・ディフーゾタウン」のスタートアップ認証を取得。街全体を宿泊施設として捉え、地元の人との交流や文化体験を通じた観光のあり方を模索している。新たなゲストハウスやホテルの開業も相次ぐ中、青木さんはその流れを前向きに受け止めている。[caption id="attachment_11727" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 工場には神棚があり、油の神様である京都・離宮八幡宮の油祖が祀られている〉[/caption]「平戸市には油だけでなく、味噌や醤油、みりん、塩、日本酒など、日本の食に欠かせない食材をつくっている生産者がいますが、小さな島でこれだけ揃っている場所は全国的にも珍しいと思います。製造の現場を見て、作り手の思いを知り、その場で味わう。そうした体験を通して、観光で訪れる人が地域の食文化の奥行きに触れるきっかけになればうれしいです。もちろん、誰かが引き継がないと、地域に根づいた文化は消えてしまう。でも、平戸にはまだまだ大きな可能性があると思っています」今後は母屋の一部を改装し、油をはじめ平戸の地元食材や調味料を盛り込んだ昼食も楽しめる販売スペースを開設する予定。搾油作業の見学・体験にも力を入れていくつもりで、まさに平戸の食文化に触れる場所づくりを目指している。青木さんの食文化を伝える取り組みは、まだまだ始まったばかりだ。油屋として平戸で生きていくことについて、青木さんは「暮らしを織る」という言葉で語ってくれた。「この場所の自然や歴史、これまで積み重なってきた文化という縦糸があってはじめて、そこに僕たちが新しい生業を始めて横糸を張ることができる。その縦糸と横糸で、この地域だけの模様が出来上がっていくんだと思います」「たねのわ搾油所」が地域と織りなす模様は、きっとどこか懐かしく、それでいて新鮮に感じられる。今日も、明日も、我が家の朝食準備の始まりは青木さんの菜種油とともにある。&nbsp;]]></description>
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    <title><![CDATA[「ばあちゃんといっしょに働こう」 高齢者×地域×ビジネスで社会を編み直す〈うきはの宝〉大熊充の挑戦]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/michan-2</link>
    <pubDate>Sun, 06 Jul 2025 21:00:03 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[「75歳以上のばあちゃんたちが働く会社」――そんな一風変わったコンセプトを掲げて福岡県うきは市に誕生した〈うきはの宝株式会社〉は、今や日本中から注目を集める存在になっている。創業者は、地元・うきは出身のデザイナー・大熊充氏。地域に暮らす高齢者との対話を起点に、"高齢者が働ける仕組みがない"という社会の空白に挑み、ばあちゃんたちの知恵と働く意欲を資産として、さまざまな新業態を実装してきた。その取り組みは、ビジネス界や福祉・行政の現場はもちろん、海外の研究者にも関心を呼んでいる。前回の取材から4年。クオリティーズ編集部は再びうきはの宝を訪ねた。ばあちゃんたちの活躍は今、どこまで進化しているのか? そして大熊さんが描く「高齢社会のリデザイン」とは。[プロフィール name="大熊充" message="おおくま・みつる。うきはの宝株式会社 代表取締役・デザイナー。1980年、福岡県うきは市生まれ。2014年にデザイン会社を創業。2017年、〈日本デザイナー学院九州校〉に入学し、グラフィックデザインとソーシャルデザインを学ぶ。在学中に、社会起業家育成プログラム〈ボーダレスアカデミー福岡校(第2期)〉を修了。2019年、75歳以上のおばあちゃんたちが働ける会社〈うきはの宝株式会社〉を設立。2021年、農水省主催「INACOMEビジネスコンテスト」最優秀賞。第20回福岡県男女共同参画表彰「社会における女性の活躍推進部門」受賞。2023年、ICCサミット KYOTO「ソーシャルグッド・カタパルト」選出。2024年、福岡県「6次化コレクション」県知事賞、『GOOD DESIGN AWARD 2024 グッドデザイン賞・ベスト100』を受賞。"]ばあちゃん喫茶、大盛況!福岡県春日市の「春日市まちづくり支援センターぶどうの庭」で、毎週土曜日にユニークな喫茶がオープンしている。それが、大熊氏が考案し地域の高齢者とともに運営している「ばあちゃん喫茶」だ。この日の店長は高久保瑞子さん。現在85歳。元気な笑顔が印象的な女性だ。[caption id="attachment_11670" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 取材日に店長を務めた高久保瑞子さん。後ろでサポートするのは、来週の店長である日田美智子さん〉[/caption]この日のランチメニューは、肉豆腐とオムレツ、レモンと小松菜と揚げの和え物の定食で、既に店内は満席。近所の人や家族連れ、店の評判を聞いてやってきた人など、様々な人たちで賑わう。一日15食をほぼ予約で売り切る。[caption id="attachment_11671" align="alignnone" width="960"] 〈▲ この日、高久保店長が作った日替わりメニューがこちら。メインは、味のしみた肉豆腐!〉[/caption] 「ご近所の方に無農薬のレモンをもらったので、アドリブで和え物に入れたの」と高久保さんはニコニコと笑いながら、食材の説明をしてくれる。「もともと料理は好きだったけど、これだけたくさんの料理を一度に作るのはなかなか大変で。でも、少しずつ慣れてきたかな。そうそう、予算管理も大変でね、本当は牛肉を使いたかったけど、今日は豚肉にしたの」(高久保さん)「好き」なことが「仕事」になり、多くの人に喜ばれていることに、張りあいを感じていると高久保さん。そんな彼女の様子を見ながら、大熊氏はこう語る。「ばあちゃんたちとは、ちゃんとビジネスの話をします。楽しくやりたいけど、赤字だと続けられんからって。経営の計画とか数値も見せて、損益のラインも考えながら、メニューを考えて仕入れもしてもらっています」大熊氏がばあちゃん店長に求めているのは、料理の腕前だけではない。なによりも当人の「働きたい」という意欲だ。「高久保さんは、最初会った時に、いいな!と思いました。スカウトしようと『LINEば教えて下さい』って言ったけど、なかなか教えてくれんで(笑)。3回目でやっと教えてくれました」(大熊さん)なお、ばあちゃん喫茶は〈うきはの宝〉が直接雇用するのではなく、ばあちゃん本人と、その活動を支える地域団体(NPO法人「春日まちづくり支援センターぶどうの庭」)との間で委託契約を結ぶ「協働型」の運営スタイルがとられている。「ばあちゃん喫茶」はすでに横展開も実現。福岡市早良区のURしかた団地店や、福岡市城南区の梅林エリアにも出店済みだ。地域に暮らす高齢者たちの“もうひとつの働き方”として、じわじわと広がり始めている。経済合理性やシステムからこぼれ落ちたものを、デザインし直す〈うきはの宝株式会社〉の出発点は、うきは市に住む高齢者たちへのヒアリングだった。そこから見えてきたのは、「孤立」と「経済的困窮」という切実な課題。大熊氏は、これらの問題に真正面から向き合い、ばあちゃんたちとともに働く場として会社を立ち上げた。課題意識そのものは変わらないが、近年では「社会課題の解決」といったラベルをあえて使わず、より構造的で普遍的な視点から捉え直すようになったという。「創業当初は、高齢者の問題解決や地域活性化という文脈で語ることが多かったんです。でも、事業をしていると、僕が向き合っていることって、特定の世代や地域に限った話ではなく、日本全体の構造的な課題になっていることに気づいた。僕自身も、いま興味があるのは“地域の活性”というより、“人の活性”。人口の中で大きな割合を占める高齢者が元気になれば、日本の地域は自然と活性化すると思っています」大熊氏の活動は、直感的には「なんだかいいな」と共感されやすい。しかし一方で、説明しようとすると途端に難しくなる。それは、彼の取り組みが既存の制度や常識の文脈から外れているからだ。たとえばビジネスの世界では、こんな声も聞こえてくる。「経営者の仲間たちからは、『儲からんことばっかりやりよるね』と言われます。もちろん僕も営利企業の経営者だし、そう言われる理由もよくわかりますよ。わかった上で、始めたのが“喫茶店”という利益が出にくい業態ですし、週に一度、4時間だけ開けてるだけの店。ビジネス目線で言えば、平日も開ければいいじゃないか、夜も開けて利益率の高いアルコールを提供すればいいじゃないかという話になりますが、そんなに働いて体調を崩すばあちゃんが出てくると本末転倒ですから。だから僕らはそういう広げ方はしません」 一方の福祉や介護業界からは、こんな反応も。「高齢者を働かせるなんて!とお叱りを受けることもよくあります。福祉的に見れば、じいちゃんばあちゃんたちは“保護するべき対象”なんですよね。ただ僕たちの会社で働いてくれているばあちゃんたちは、“働きたい人”なんです。無理に働かせているわけではありません。もちろん、保護を必要とする人に対しては福祉が絶対に必要です。でもまだその段階でない人まで一律に“守る”ことが本当にいいのか。僕たちは“もうしばらく一緒に働く道を選びます”というだけの話なんですけどね」ビジネスの観点でもカバーできず、福祉の観点でもカバーできていない領域がある。既存の枠組みだけではしっくりきていないところをどうにかしたい。これが大熊氏の偽らざる本音だ。「つまり、いまの日本社会に“高齢者が働く仕組みがない”っていうことだと思うんです。若者がフルタイムで働くのに比べて、高齢者が限られた時間だけ働くことは“非効率”と見なされがちだけど、それは“経済合理性”と名付けられた価値観が前提になっているだけ」さらに、健康な高齢者を評価する仕組みも、ほぼ存在しないと大熊氏は言う。「介護保険制度では、企業は利用者がいることで利益を得ます。だから、介護サービスを利用しない高齢者は“顧客”と見なされない。むしろ介護度が上がるほど、事業者にとっては収益になる。これは構造としておかしいと思うんです。本当は税金や保険を使わずに健康でいられる期間が長いことこそが、企業にとってプラスとなる仕組みが必要ではないでしょうか。つまり介護が必要ない状態をつくる企業にインセンティブが働くようにした方がいい。そうなれば国にとっても良いことのはずです」大熊氏の活動、ならびにうきはの宝の事業は、現状の経済や国のシステムからは評価されにくい存在である「高齢者」の可能性を再発見し、仕組みそのものをデザインし直す挑戦でもある。超高齢化社会をどう乗り越えるか、世界中が興味を持っている社会の制度や常識そのものを問い直し、新たな仕組みを模索する挑戦的な姿勢を複数のメディアを通じて示すことで、〈うきはの宝株式会社〉の活動には国内外から熱い視線が注がれている。また前述した著作『年商1億円!(目標)ばあちゃんビジネス』をきっかけに、ビジネス界、福祉・介護関係者、社会起業家、行政関係者など、さまざまな立場の人々から反響が寄せられているという。実際、大熊氏の事業を「自分の目で見てみたい」と訪ねてくる人も後を絶たない。スタンフォード大学で長寿研究に携わる研究者が現地を視察に訪れたり、タイ王国の王立研究所から講演依頼が届いたりと、国際的な注目も高まりを見せている。「スタンフォード大学のケン・スターン教授は、日本の“生きがい(ikigai)”という言葉に注目していました。体が健康なだけでなく、誰かの役に立ち、必要とされることから生まれる感情に、名前がついているのがユニークなんだそうです。アメリカにはそれにあたる言葉はないと言っていました」高齢化が先行する日本は、アジア諸国や欧米にとっての“未来の姿”でもある。だからこそ、日本がどのように超高齢社会を乗り越えていくのかに対する世界の関心は、ますます高まっている。「とはいえ、高齢化社会・日本の課題解決モデルをここに見るのもなんか不思議だなと思って、『なぜ九州の片田舎まで見学に来るのですか?』と聞くと、あなた達は悲壮感がなく楽しそうに見えるからだ、と言ってくれた人もいて。それを聞いて、なるほどな、と思いました」真剣に課題に向き合いながらも、どこか肩の力が抜けていて、楽しさや希望を忘れない。大熊氏が持つその空気感こそが、多くの人を惹きつけている。[caption id="attachment_11672" align="alignnone" width="960"] 〈▲ ばあちゃん喫茶のロゴデザインを検討中〉[/caption]想定が外れまくった「ばあちゃん新聞」現在、うきはの宝株式会社の事業の柱の一つとなっているのが、「ばあちゃん新聞」だ。タブロイド判の新聞は、毎月の巻頭特集以外にも、ばあちゃんのレシピや美容情報、健康体操、お悩みにばあちゃんが答える人生相談コーナーなど多彩なコンテンツが揃う。現在は毎月5000部を発行し、1部330円、年間購読6,578円(税込み/送料込み)で、全国に読者を持つまでに成長している。「当初は購読料だけで成り立たせようと考えていて広告も一切載せてませんでした。自立自走を掲げているので、企業からの広告費≒補助がないと成り立たないのはよくないという変なプライドがあって。案の定、スタート時は赤字続きで、なかなか黒字にならず。まずい、このままだと廃刊かも、と焦っていた時に、いろんな企業の方たちが応援を申し出てくださって。そこから広告の掲載を始めることにしました。やってみれば、無条件に応援してくださる方もいれば、一緒にタイアップ企画を考えてくださる企業もあって。結果的に、誌面もにぎやかになり内容も一層充実しました」誌面づくりは、企業のPR誌的な方向に傾くのではなく、あくまで読者との接点を豊かにする形で展開されている。たとえば、ペットのようにコミュニケーションができるロボット「LOVOT(らぼっと)」とばあちゃんの共同生活を描いた企画や、インスタントラーメン「うまかっちゃん」とのコラボでオリジナルレシピを募集する企画など、読者にも企業にも新しい気づきを与える内容が並ぶ。当初は、「高齢者の知恵に関心を持つ若者」や、「社会課題に敏感な層」が読者になると想定していた。ところが実際に蓋を開けてみると、購読者の多くは60～70代の女性だった。「自分と近い等身大のばあちゃんたちが、日頃どんなことを考えているかとか、ちょっと歳上の女性がどう生きてきたかなど、身近なロールモデルに感じられるみたいで、勇気づけられたとか元気になったなどの反響をいただいています」読者の反応に合わせ、文字サイズやレイアウトなどの編集方針も柔軟に見直された。現在ではWEB版もスタートし、「記事を書いてみたい」「感想を伝えたい」「ネタを提供したい」と、編集部と読者の距離がぐっと縮まっている。“ばあちゃんたちによる、ばあちゃんたちのためのメディア”は、着実にその輪を広げている。 人生を自分で決めるって、すばらしい大熊氏は、まったく威圧的なタイプではない。むしろ、いつもニコニコと柔らかい空気をまとっている。しかし、その奥底には、揺るがぬ強さがある。本気でやりきると、腹をくくっている人が持つ強さだ。社会的な要請は多方面からあると思うが、はたして大熊氏自身のモチベーションはどこから生まれているのだろう。「変な話、明日やめてもいいやって思っているからこそ、やりきっているところはあるかもしれません。みんなすぐに線で結んで面にしようとしますが、僕はずっと目の前の点を一点突破しようとしているところがあります。いわゆる一生懸命ではなく、一所懸命というか」「世の中にない事業をやるのって、怖いです。怖いけど、おもしろいです。僕はばあちゃんの意見もお客さんの意見も周りからの評価も、いったんは素直に聞きます。でも最後は全部自分で決めるんです。自分の人生を決めるってすばらしいことですよね。決められない人生って、やっぱりしんどくないですかね?」この問いかけは、大熊氏自身の生き方を表しているものであると同時に、ばあちゃんたちへのまなざしそのものでもある。ばあちゃんたちは単なる労働力ではない。本来、たくさんの経験や技術、知恵を持ちながらも、それを活かす機会を失っていた人たち。その力を引き出し、もう一度、社会とつなぎ直したのが〈うきはの宝〉の取り組みだ。自分でつくった料理でお金を得る。お客さんから「おいしかった」と言ってもらう。今日のメニューを、自分で決める。そんな小さな「決定」の積み重ねが、ばあちゃんたちの自信を少しずつ取り戻していく。そして今、そのばあちゃんたちの能力が発揮される場が、着々と準備されている。2025年10月19日、福岡県うきは市で開催される〈ばあちゃんの学校だ。自慢の郷土料理を競う「ばあちゃん甲子園」、着付けの仕方や漬物の漬け方を教わる「ばあちゃんの授業、高齢者向けのサービスやプロダクトを評価する「Bマーク認証」など、様々な催しが予定されている。「すごいばあちゃんたちがたくさん出ますから。ヒップホップを披露してくれる方もいらっしゃいます。ぜひご期待ください」常識を、楽しく、大胆に編み直す。大熊氏の、社会の価値のリデザインは、これからも止まることなく進んでいく。撮影:東野正吾【関連記事】「75歳以上のばあちゃんたちが働く会社」を創業! 大熊充が語る、人生を自分で決める幸せの形※大熊充さんとクオリティーズ日野編集長の対談記事です]]></description>
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    <title><![CDATA[&quot;語れる企業&quot;が選ばれる 博報堂ケトル創業者・嶋浩一郎と考える、地方企業のPR戦略]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/qualities5th-shima-hino</link>
    <pubDate>Sun, 08 Jun 2025 21:00:27 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[「うちは地味だから」「語ることなんて何もない」地方の企業から、そんな声を幾度となく耳にしてきました。ですが、地域で長く続いてきた企業には、語っていないだけで、本当は語るべき価値があるはずです。語られていない理由のひとつは、自らの存在があまりにも日常になりすぎていて、自社を相対化できず、「語るべき価値」に気づけていないことにもあるのではないでしょうか。ローカルに根ざす企業が持つ“言語化されていない価値”こそが、社会の輪郭をかたちづくっている――2025年6月に創刊5周年を迎えたクオリティーズは、この5年間、九州各地を取材するなかで、それを確信し、その一方で地方企業の情報発信には大きな可能性が残されていると実感しています。そこで今、創刊5周年という節目に「地方企業×PR」について、あらためて語りたいと思い、PRの仕事を多数手がけてきた嶋浩一郎氏にお話を伺いました。情報が爆発的に増え、東京一極集中も続くなか、地域に暮らす人々の選択肢も多様化。そんな時代に、地域の企業はどのような“言葉”を持つべきか。言葉を紡ぐ際に、不可欠なのが、PR(=Public Relations)だと嶋氏は言います。「PRとは、さまざまなステークホルダーとの新たな合意形成を生み出す技術だ」とも。情報の洪水を超えて、「意義」が問われるこの時代。企業が社会とつながり、次の担い手を迎え入れるために、地方企業は何を語るべきなのでしょうか。編集長・日野昌暢が、PRの原点と可能性について嶋氏に訊きます。[caption id="attachment_11608" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 嶋浩一郎氏(写真右)はクオリティーズ編集長の日野昌暢(同左)の所属する博報堂ケトルの創業者でもある〉[/caption]“発信の空白地帯”を埋めるための地域メディアとして5年日野「クオリティーズを立ち上げたのは2020年6月9日ですが、きっかけは2019年にまで遡ります。当時、“地方創生”のブームが一巡し、行政の予算で立ち上がった多くのローカルメディアが続けられず消えていった時期でした。業界的には「いまさらローカルメディアを?」という空気感もあった中、なぜ僕らが改めてローカル発のウェブメディアをやろうと思ったか……それは、地域の魅力を客観的な目線で地域外に発信できるメディアが圧倒的に不足していたから。しかも地域の多くの人が必要性を感じているにもかかわらず、それが成立させられていない。そのこと自体が、大きな課題だと感じていました。僕自身、東京にいたからこそ、地域に埋もれた価値に気づけたという実感があります。だからこそ、“地域の外”に向けた視点で、地域の本質的な魅力を見立て、言語化していくメディアが必要だと考えたんです」嶋「なるほど。中にいると気づかない価値を発掘し、社会との接続をつくるのもメディアの本質的な役割のひとつだと思いますよ」[caption id="attachment_11609" align="alignnone" width="960"] 〈ターメリック、クミン、コリアンダー、レッドチリ…とスパイス名が書かれた謎Tシャツを着ているのは「この後、ランチでカレーを食べにいくから」とのこと〉[/caption]日野「そうした視点に共感してくれたのが、福岡に拠点を置くファイナンス企業・ドーガンの森大介社長でした。森さんはファイナンスの視点から九州中の企業と向き合ってきて、『素晴らしい企業が、地域外どころか地域内ですら認知されていない』ことで、今の変化に必要な人材の採用がしづらいということを強く問題視していました。森さん自身が“数字だけでは見えない企業価値”に気づいていたことが、両者の協業を後押ししたのです。金融をテリトリーに事業をするドーガンとクリエイティブ領域で価値を提供しているケトルはまったく違う属性というか、通常は接点の少ない業種同士。そんな中、地域の企業が本来持つ価値を外に向けて発信することが、地域をより良くしていくと信じて手を組み、クオリティーズが生まれたわけです」[caption id="attachment_8446" align="alignnone" width="960"] 〈▲ ドーガン代表・森大介〉[/caption]嶋「今の時代、企業に“語る力”がなければ採用も難しい。クオリティーズはその点にも取り組んでいるよね?」日野「はい。クオリティーズには2つの柱があり、各地域のライターが『取材したい』と推薦した人物や取り組みを紹介する編集記事と、ドーガンがピックアップした地域の優良企業を取材し、採用やPRを目的として魅力を可視化するスポンサード記事があります。後者はスポンサー料をいただきつつ、実際に人材採用に成功すれば、成功報酬型のフィーが発生する仕組みになっていて、この仕組みこそが、継続が難しいと言われるローカルウェブメディアを5年間続けてこられたビジネスモデルの土台になっています」嶋「地域の企業が持つ本質的な価値をPR視点から言語化して、可視化することで、採用も含めてHRの課題解決を狙っているんだね」日野「そうです。メディアの事業オーナーがドーガンで、ケトルは取材と編集を担っているという構造です。いまだに多くのBtoB系ローカル企業は、地域のバリューチェーンのなかで役割を果たしてきた歴史が長いので、特定の顧客以外に自らを語る必要はありませんでした。しかし、グローバル化が進み、採用にも多様性が生まれる中、自らを語らなければいけない時代がきているのに、その言葉を持てていないという課題があると思っていて。それをどう支援するかがクオリティーズの大きな役割だと思っています」地方のBtoB企業こそPRが必要 「市場の中の私」から「社会の中の私」へ嶋「僕は仕事柄、いろんな業界の企業と接してきましたが、そのなかでも特に地方の企業、なかでもBtoB企業にこそ、PRの視点が必要だと感じています。実際にローカル企業の経営者と話していると、『PRなんてやったことがない』『何を語ればいいかわからない』と戸惑う声を耳にすることも多いですね」日野「実際、クオリティーズで企業を取材していても、『何をどう語ればいいかわからない』という反応をされることはよくあります。でも、本当は語るべきことはあるはずです」嶋「もちろん、すべての企業に語るべきストーリーはありますよ」日野「ですよね。社会にとって必要のない企業だったら、そもそも存続できるわけがないですから、そこに語れることがきっとある。地域に根を張り、何十年も事業を続けていること自体が、その企業が持つ社会的価値の証明ですよね」嶋「まさにそう。特にBtoB企業は、その性質上、社会との関係性を持っていないなんてことはまずありえません。ただ、その価値が語られてこなかった背景には、“社会全体”や“一般生活者”に向けて自社の存在意義を言葉にしてこなかった、という構造的な事情があります。お客さんが少数の同業者のケースが多いですからね。これまでのBtoB企業は『市場の中の私』──自社製品のスペックについて、お客さんに語ることに集中していればよかった時代だった。でも今は、お客さんではない人たちも含めた社会に向けて『社会の中の私』──自社が社会に果たす役割についても語ったほうがいい時代になってきていると思いますよ」日野「その『市場の中の私』と『社会の中の私』の話、嶋さんの最新刊(『「あたりまえ」のつくり方』)でもすごく印象的でした。改めて、未読の方にも伝わるようにご説明いただけますか?」嶋「企業の発信を考えるとき、僕は常に『市場の中の私』と『社会の中の私』という2つの視点を意識しています。『市場の中の私』は、自社のサービスや商品の優位性を語ること。競合と比較して我が社の製品はこのスペックが優れていますよという話ですね。企業はモノやサービスを売って利益を挙げなければならないわけですから、マーケティング的にこのアピールはとても大事です。一方の『社会の中の私』は、その企業や製品が社会のなかでどんな役割を果たしているか、社会課題にどう向き合っているか、という視点です。従業員満足度や採用などの企業ブランディングを考えるとこの情報発信もとても重要なんですね」日野「『市場の中の私』については、ローカルのBtoB企業の皆さんも比較的しっかり語られるんですよね。でも『社会の中の私』について尋ねると、急に口ごもってしまう。『そんなこと考えたことなかった』とか、『どう語ればいいのか』という反応になることも多い」嶋「それって実はすごくもったいないことなんですよ。繰り返しになるけど、BtoB企業こそ“社会との関係性”を持っているわけですから。たとえば、ある地方企業が発電所向けの部品を作っているとします。これまでなら『品質の高さ』が訴求ポイントだったかもしれない。でも今はAIが爆発的に普及し、電力インフラの重要性が劇的に増していますよね。そうなると、その企業は単なる部品メーカーではなく、『AI社会の基盤を支える存在』としての社会的意義を持つことになる。つまり、企業が扱う製品やサービスは、社会の変化によって“語る意味”がどんどん変わっていきます。その変化を掴み、言葉にすることがPRの本質でもあると思っています」PRはイメージ戦略ではなく〈社会との関係性の設計〉である[caption id="attachment_11612" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 嶋氏の最新作『「あたりまえ」のつくり方——ビジネスパーソンのための新しいPRの教科書』(‎ NewsPicksパブリッシング)は、PRパーソン必読の一冊〉[/caption]日野「社会の変化に伴って、企業が提供している価値は違う意味合いを帯びるという視点はすごく重要ですよね。実際、取材する企業の皆さんに『去年全部語ったから今年は語ることがない』と言われることもあるんですが、社会は絶え間なく変化している以上、自分たちの製品やサービスが持つ意味も微妙に変わってくる。そうした“意味の変化”に敏感であることが、PRを考える上でも欠かせない視点だと思います」嶋「まったくその通りですね。例えば電気自動車(EV)も、かつては『燃費が良い』『環境に優しい』という文脈のみで語られるものでしたが、東日本大震災の際、停電時にEVの電気でサバイバルできた人たちがいたことで、災害時の電源供給源としての役割が新たに評価されましたよね。また、かつては“手抜き”の象徴と見られていた冷凍食品が、共働き家庭の増加やライフスタイルの変化によって“忙しい家庭を支える重要なライフライン”として捉え直されるようになっています。つまり、商品そのものは同じでも、社会の文脈が変わることで、その価値の見え方や広がり方も変わってくる。だからこそ、企業は絶えず自社の製品やサービスを社会的文脈で『語り直す』ことが必要です。去年語ったことがそのまま今年も通用するとは限らない、という視点を持てるかどうかが問われているんです」日野「とはいえ、自分たちの価値を、自分たちだけで見立てて言語化するのは難しい面もありますよね。人も企業も、自分のこととなると案外わからなくなるものですから」嶋「たしかに、“中の人間”だからこそ、それが見えづらくなることはありますよね。それでも、企業が開発・提供している商品やサービスはどんなものであっても、必ず社会的な意味を持っていること、そしてその意味は、刻々と変わっていくものだ、という前提に立ち返るべきだと思うんです。社会の側が変われば、企業の役割や価値もまた変わるんです。こうした視点を持つことで、企業は自分たちの存在をより広い文脈のなかで語ることができるようになる。それができれば、採用活動にも確実にポジティブな影響が出てくると思います」日野「“社会の中の私”をしっかり言葉にできる企業は、顧客や取引先だけでなく、働き手からの信頼や共感も得られやすくなりますよね。特に今の若い世代は、企業がどんな姿勢で社会に向き合っているかを重視する傾向が強い。」嶋「社会文脈で自社を語れる企業は、地域外からも関心や共感を得られるし、人材も集まりやすくなりますよね。逆に言えば、これからはそうした視点を持てない企業は、『採用できない』『地域に理解されない』といった問題が表面化してくるかもしれない。BtoB企業にとって、『社会の中の私』を語ることは、もはや生存戦略と言える段階に入っていると思います」日野「だからこそクオリティーズでも、BtoB企業の皆さんに取材する際には、『皆さまの事業は社会にとってどんな意味がありますか?』『皆さまがいなければ、社会のどこが困りますか?』といった問いをお聞きしています。僕らは、単に取材して記事を書くという役割にとどまらず、企業の皆さんが自分たちの社会的価値を言葉にしていく、そのプロセスを一緒に歩む“伴走者”でありたいと考えています。PR用語に“ナラティブ”という言葉がありますが、その企業やブランドに触れた人が、さらに人に語りたくなる要素ですね。自分の市場の中で価値ではなく、社会の中での価値を言語化することで、その企業にナラティブを宿すことができると思うんです」嶋「それが本来のPRの仕事だと思いますよ。PRは決してイメージ戦略や広報テクニックの話ではなく、文字通りPublic Relations──“社会との関係性”をどう設計するか、という営みそのもの。企業の取材や編集に携わる人間も、その視点から文脈を読み取り、関係性を編み直していくこと。それが、これからのPR、そして編集者にとっての本質的な使命だと思います」ローカルに眠る物語を掘り起こすには、“無自覚な魅力”を見立て直す必要がある日野「ローカル企業の皆様も、社会的な役割を語ることの大切さはちゃんと認識されているんですよね。ただ、いざ自分たちのことになると、なかなか言語化できずにいる、というのが実態だと思っています。だからこそ僕たちは、大きな理念を背伸びして語らせるのではなく、日々の営みのなかにある“語れるもの”を一緒に見つけたいと思っているんです」嶋「その企業だけが持っている“物語”ってあるんです。それは、売上や実績といった表面的な数字ではなくて、『なぜ自分たちはここでこの事業を続けているのか』といった、ごく個人的な問いから始まるようなもの。地方には、そういう物語の“原石”がごろごろ転がっています。でも、日常に深く溶け込んでいるがゆえに、当事者にはなかなか見えにくいんですよね」日野「それはありますね。取材で話を伺っていると、『それ、めちゃくちゃ語る価値がある話ですよ!』と感じる瞬間が何度もあります。でも、そう伝えると『え、そうなんですか?』と驚かれることが多い。本人にとっては当たり前でも、そこにはその企業だけが持つ価値や魅力が確かにあるんですよね」嶋「企業の話に限らず、ローカルって文化的な堆積物がたまっている場所なんです。それを語ればすごく面白いけど、多くの場合、当事者にはその“あたりまえ”の価値が見えていない。だからこそ、外の視点が必要なんです。ローカル企業にしろ、地域社会にしろ、外の視点を持った人間がそこにある“あたりまえ”に着目して、“語る価値のある物語”に編集することが大切です。編集というのは、要するに見立ての作業ですから」[caption id="attachment_11615" align="alignnone" width="960"] 〈▲「実は、面白いものってローカルの方にある。地元の人にとっては当たり前のことも、外の人にとってはまったく新しい発見になりますから。それがローカル発信の強みです」〉[/caption]日野「実際、企業が自分たちの意味を言語化できたとき、それが採用にもダイレクトに効いてくると思うんです。PRとHRって、本来は分けて考えるものではなくて、地続きのものですから」嶋「いまの若い人たちは、『何をやっている会社か』よりも『なぜそれをやっているのか』をすごく見ています。つまり、共感が先にある。理念や社会的意義に共鳴することで、“ここで働きたい”と思うようになる。採用において“語れる企業”であることは、もはや必須条件と言っていいと思います」日野「その傾向は今後、より顕著になっていくんでしょうね。クオリティーズでも取材した熊本県上天草市のシークルーズ代表の瀬崎公介さんは、長年にわたり『この地域をもっと魅力的な観光地にしたい』『海という資産を観光に生かしたい』と語り続けてきました。そして実際に、地域資源を活用した観光施設の開発をすごいスピード感と規模感で進めてこられた。瀬崎代表自らが地域の魅力を言語化し、行動に移してきた結果、シークルーズには首都圏や関西の大学の学生が『ここで働きたい』と応募してくるようにもなっているんです」[caption id="attachment_1560" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 株式会社シークルーズ代表取締役の瀬崎公介氏〉[/caption]嶋「それはまさに、“自己定義としてのPR”が採用という成果に直結した好例ですよね。理念が言語化されていて、それに共感した人が動いた。PRとは、“共感の交通整理”でもあるんですよ」編集による事業支援へ  PR・HR・ファイナンスの交差点日野「クオリティーズも創刊から5年。そしてこれからも成長を続けていくために今後は、ただ記事を出して終わり、という編集から一歩踏み込んで、企業の中に入り込んで支援していくフェーズに移行していこうとしています。たとえば、採用サイトのトーンや構成を見直したり、社員の皆さんと一緒に“自分たちの言葉”をつくるワークショップを開いたり。企業の“社会的な語り口”を、現場の人たち自身が使えるようにしていく。その伴走が、編集者の次の役割になる気がしているんです」嶋「それは非常に本質的なアプローチですね。情報発信というと“外向き”のものと思われがちですが、実は“内側の意識づくり”でもある。働いている人たち自身が『自分たちは何のために働いているのか』を言語化できれば、それが誇りになり、採用や人材育成にも直結していく。PRは社外だけでなく、組織文化そのものにも影響を与える構造を持っています」日野「そうなんです。言葉が整うと、現場の空気も変わっていく。実際に、これまでのスポンサー企業のなかでも、インタビューを経て『会社の目的を再確認できた』という声もありました。編集者の仕事って、“社会との接点”をつくるだけじゃなく、“社内の関係性”も編み直すことなんだと感じています」嶋「今は、PR・HR・ファイナンスを分けて考える時代じゃないんですよね。明確なパーパスを言葉にできている企業には、自然と人が集まります。そして、そうした人材がいるからこそ、金融機関も安心して投資できる。つまり、企業の“語りの力”が、人もお金も動かす時代になってきた。知名度や資本力で首都圏の大企業と競うことが難しいローカルの企業だからこそ、“何者であるか”を言語で定義することはより大切になってくるし、それこそが経営における大きな武器になるはずです日野「たしかに。『語りの力』が、信用や共感、そして次の機会を生み出していく時代だと、私も強く感じています」嶋「そして、“どこで語るか”も重要になってきました。オウンドメディアに自社情報を載せることはもちろん大事だけれど、第三者の視点が入ることで語りに信頼性と広がりが生まれる。たとえば、クオリティーズのような外部メディアに取り上げられることで、その情報はSNSのタイムラインなどに“出張”しやすくなる。つまり、個人を介して自然に拡散される構造ができるわけです。さらに、AIの時代に、ウェブ上のあらゆる情報がクローリングされ、文脈や信頼性まで判断されるようになってきている。だったら、自社だけが発信するよりも、信用ある第三者メディアにアーカイブされている方が圧倒的に有利ですよね。“語られている”こと自体が、企業にとっての資産になる。これからの時代、どこで語られるかが、企業の信頼性や選ばれ方を左右していくと思います」日野「おっしゃる通りですね。そうした時代に対応すべく、クオリティーズは『編集による事業支援』をもっと深めていきたいですね。たとえば、単発のPR記事にとどまらず、採用・営業・事業開発──あらゆる企業活動に接続する“核の言葉”を企業と一緒につくっていく。『社会に対して何を伝えるか』を言葉にすることで、企業の未来の選択肢を増やしていく。そういう“メディアの進化系”を模索したいと思っています」撮影:今井裕治 [プロフィール name="嶋 浩一郎" message="しま・こういちろう/1968年生まれ。博報堂入社後、企業広報や『広告』編集長を歴任。若者向け新聞『SEVEN』編集ディレクターを経て、2004年「本屋大賞」創設に参画(現・NPO本屋大賞理事)。2006年、博報堂ケトルを設立し、PR視点による統合型コミュニケーションを実践。2012年、書店「B&amp;B」開業。著書多数。PRを「社会との関係性の設計」と定義し、多様なメディアと生活者をつなぐ編集者として活動中。"]、]]></description>
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    <title><![CDATA[建築的思考で未来をデザインする。ナカシマファーム3代目が描く新たな風景]]></title>
    <link>https://qualities.jp/article/nakashima-farm</link>
    <pubDate>Sun, 08 Jun 2025 03:00:19 +0000</pubDate>
    <description><![CDATA[築169年の建物から生まれる酪農の新機軸「乳(NEW)カルチャー」佐賀県嬉野市塩田町の中心部、古い町並みが残る長崎町道・塩田津に、築169年の蔵をリノベーションしたカフェ『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』がある。江戸時代、宿場町としても栄えたこの地区に、新たな風景を生み出しているのは、嬉野市唯一の酪農家「ナカシマファーム」3代目の中島大貴(ひろたか)さんだ。彼が日本で初めて製品化したブラウンチーズは、チーズ製造で廃棄されていた乳清(ホエイ)を活用したもの。サステナブルな酪農を体現するこの商品で、彼は2018年の「Japan Cheese Award」で金賞・部門最優秀賞を、翌年の「World Cheese Awards 2019」では銅賞を獲得し、国内外で高く評価された。2021年に販売を開始した「MILK BREW COFFEE」は、コーヒー粉を搾りたてのミルクに一晩漬け込んで抽出する、独自の製法によるドリンク。ミルクの可能性を拡張する、新しいコーヒー体験を生み出している。[caption id="attachment_11584" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』〉[/caption][caption id="attachment_11590" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 趣きある壁に鮮やかなポスターが際立っている〉[/caption]店内に足を踏み入れると、酪農業からは想像もつかない洗練された空間が広がる。浅煎りの珈琲豆から立ち上るフルーティーな香りが漂い、高く抜けた天井にはどっしりとした梁がかかる。歴史を感じさせる木造建築と人工大理石やステンレスといったモダンな素材の調和に目を奪われる。奥のガラス扉の向こうでは、牛乳やチーズを使ったお菓子作りが行われていた。車で5分ほどの牧場で搾られたフレッシュな牛乳が使われている。棚には水色、オレンジ、ピンクの3色でデザインされたパッケージのアイテムが並ぶ。長閑な田舎町で出会ったモダンなデザインに、思わず「ここが佐賀県の小さな町なのか」と驚かされる。家業の酪農を継ぐ気など毛頭なかったという中島さん。地元の高校を卒業後、関東の大学で建築を学び、建築家を目指していた彼が、なぜ故郷で酪農家となり、町に新たな景色を生み出しているのか—―。その答えを求めて、彼の歩みをたどる。&nbsp;[プロフィール name="中島大貴" message="なかしま・ひろたか/ナカシマファーム代表。1986年、佐賀県嬉野市生まれ。祖父の代から続く水田酪農を継ぐ酪農家の3代目。大学で建築学を学び、2009年に実家へ戻り就農。2012年にチーズ工房「ナカシマファーム」を立ち上げ、チーズの製造・販売を開始。2018年には、福岡の「ROASTERY MANLY COFFEE」と共同で新しい抽出法「MILK BREW」を開発。2021年塩田津にカフェ「MILK BREW COFFEE」、2022年には嬉野温泉駅前にセレクトショップ「UPLIFT SHIMOJYUKU」をオープンするなど、乳を起点に佐賀・嬉野から新たな文化=「NEW CULTURE/ニュウ(乳) カルチャー」を発信している。"]到達点から逆算する思考「実家のすぐ裏に牛舎があり、他の家庭の親が会社に通うように、父母が牛舎へ仕事に向かう姿が日常風景だった」と中島さんは幼少期を振り返る。時折、牛舎の作業を手伝わされることはあったが、家族と共に働くイメージは持てず、家業を継ぐ意思もなかった。小学生で始めたソフトテニスに熱中し、中学、高校と部活中心の生活を送った。高校選びは迷わず、ソフトテニス強豪校の工業高校へ。プラモデルやレゴなど、ものづくりが好きだった中島さんは建築学科に進んだ。ソフトテニス部では学年の上下に全国優勝者がいるトップレベルの環境で、「到達点」から逆算する思考が培われていった。インターハイに出場するも校内では勝てず、レギュラーの座は遠かった。「勝てないなかで自分なりの目標を作りました。狙った試合で結果を出せれば、それまでの過程で注目されなくても構わない。自分が勝つと決めた試合で勝てればいいと」この経験から「勝ちたいより、負けたくない」という原動力が生まれ、高校卒業後の進路選択にも影響を与えた。多くの同級生が就職するなか、中島さんは大学進学の道を選ぶ。「行きたい大学があるわけでも、やりたいことがあるわけでもなかったんです。でも、みんなが選ぶ就職というルートからは外れたくて。一度始めたことは最後までやり切る性分だからこそ、就職はしないと決めました。その会社でどんな成果を出せても、そこが自分の“到達点”になるのは違うな、と思ったんです」[caption id="attachment_11592" align="alignnone" width="960"] 〈▲店内には「MILK BREW COFFEE」のロゴが施されたアイテムが並ぶ〉[/caption]建築の視点で酪農を再構築する大学で建築を学んだ中島さんが、今も鮮明に覚えている教授の言葉がある。「人に表現するときに、世の中に対して批評性があるものじゃないと面白くない」この何気ない一言を中島さんは、「世の中でおかしいと感じる課題に対して、解決策を内包して提案すること」と解釈。この視点が、その後の創造活動の軸となっていく。「公共の場と私有地の混ざり合い」を卒業研究テーマにしたフィールドワークでは、印象的な光景から多くの気づきを得た。埼玉県の住宅地で見つけたのは、公共のフェンスに住民が布団を干したり、植木鉢をかけたり、さらにはフェンスを壁にして犬小屋を作る光景だった。「公共の場と個人が曖昧になっているのが良くて。ひとりがやり始めるとみんなもやっちゃう。その習性と生態系が好きなんです」と建築への思いを語る。横浜大桟橋の風景も印象に残った。「公園がそのまま海に伸びていく感じで、建築と町が影響し合っている。それでいて、人気のデートスポット。夕暮れになるとカップルたちがキスをしている。この人たち絶対建築に興味ないだろうけど、そういう使われ方をしているのがいいじゃないですか。建築の意図が直接伝わらなくても、人の行動が自然と導かれている。そのあり方が面白い」「どこを歩いていても楽しめるタイプ」と自身を語る中島さんは、無造作に置かれた植木鉢や古びたアパートなど、日常の何気ない風景にも独自の価値を見出し、建築の面白さにはまった。卒業後は「建築家になって面白いことをしたい」と漠然と考えていた中島さん。同級生と同じように就職活動を進め、ハウスメーカーや設計事務所の面接を受けていたある日、ふと気付く。「ただ建築家として面白いことをやるのであれば、自分じゃなくても良いのでは?」「そういえば家は酪農家だ。単に建築家になるよりも酪農家として建築的なアプローチを行う方が、より面白い到達点が見えるかもしれない」家を出て建築を学んだことで、畜産業の新たな可能性に気付いた。それは多様な分野と関わる『システム』としての酪農だった。建築学科の同級生たちと「誰が有名になって一番に取材されるか」を話した時、中島さんは確信していた。「絶対、僕が一番だと思ったんです。まず“分母”が違う。酪農をしながら建築の視点を持っている人間なんて、日本で他にいないかもしれない。だからこそ、僕自身の価値や存在の見せ方も戦略的に考えるようになりました。言うなれば、セルフブランディングですよね」と当時を振り返る。2009年、故郷・嬉野に戻った中島さんは、酪農家としての道を歩み始めた。[caption id="attachment_11588" align="alignnone" width="960"] 〈▲『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』がある塩田津の通り〉[/caption]花壇から始める風景のデザイン「2009年に帰ってきてから2012年にチーズ工房をオープンするまでの3年間は、ほとんど記憶がありません。朝5時半から夕方まで、1日10時間働く日々があっという間に過ぎていきました。家族経営なので予定があれば休めますが、休みたいとも思わなかったですね」嬉野に戻った当初、「牛のことでは役に立てない」と感じた中島さんは、自分の強みである建築の視点を活かすことを決意する。最初に手がけたのは、隣地と面した牛舎の花壇づくりだった。花壇のふちを分厚くし、ひとが座れるようデザイン。家族に説明することはせず、体験して気付いてもらうことを意識した。「地域において畜産がポジティブに捉えられない場合も少なくありません。それは解決すべき課題。そのために花を植えるところから始めたんです」建築が生み出すひとの反応や、風景の変化を想像しながら場を整えていく——。「隣で畑仕事をしていた方が、牛舎の花壇に座ってくれたときは本当に嬉しかったですね。そういう精神性や発想を持って牧場をつくっていかないと、大きな意味では地域に受け入れてもらえないと思っています」「世のなかの課題に対して、解決策を内包して提案する」——この建築的思考は、牛舎の風景さえも変えていく。[caption id="attachment_11582" align="alignnone" width="640"] 〈▲ 牛舎近くに広がる大麦畑。牛の飼料として栽培されている〉[/caption]塩田の本店から車で5分。田園地帯に佇む牛舎の前には、青々とした大麦畑が広がっていた。「この大麦は牛の飼料です」と中島さん。2016年頃から飼料用の稲や麦の栽培にも取り組んでいる。約100頭の牛が暮らすこの牛舎で驚くのは、特有のきつい匂いがほとんど感じられないこと。これも中島さんの問題解決思考が生んだ成果だ。「秘密は堆肥にあります。多様な微生物がバランスよくいられる環境を作り出し、匂いの原因となる特定の微生物が増えすぎないようにしているんです。人間の腸内環境のような『微生物フローラ』を牛舎に作っています」チーズ製造でも用いられる発酵プロセスを応用した匂いのない堆肥が牛の寝床に敷かれ、糞尿もそのまま堆肥になる循環システムを構築。フカフカと柔らかなバイオベッドに、気持ちよさそうに横たわる牛の姿が印象的だ。[caption id="attachment_11591" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 12時頃牛舎を訪れると、多くの牛たちは堆肥のベットに寝転んでいた〉[/caption]「リサイクルセンター」としての畜産中島さんは「畜産」を循環の起点となる「リサイクルセンター」として捉えている。「畜産は人間が利用できない資源を、利用できる形に変えてくれるんです」牛が硬い草を食べて、人間はその肉を食べる。製材所の木屑は堆肥に、醤油を作る際に出る醤油カスも飼料や堆肥になる。ある醤油メーカーが月10万円以上かけて廃棄していた醤油カスを、中島さんは廃棄コストの10分の1で買い取る。食品製造で生まれる「廃棄物」も、堆肥や飼料になれば「副産物」として価値を生み出す。カフェでは生分解性カップを導入し、客がカップを堆肥に捨てる体験も提供。店や家庭の生ゴミも堆肥にリサイクルしている。「生ゴミの8割ほどが水分です。僕たちはお金をかけて水を燃やしているんです。もうちょっとどうにかできそうじゃないですか」そう話す中島さんの動機は、とてもシンプルだ。「『地球のため』とか『サステナブルのため』という大げさな理由ではなく、単に『この気持ち悪さを解消したい』という感覚なんです。もっと楽しく、もっと自然になれそうな気がして」とはいえ、生分解性カップの導入などリサイクルシステム構築には、コストがかかる。その点について尋ねると、静かに言葉を紡いだ。「問題の根源を突き止め、そこにかけているお金を別のところにかける。それだけのシンプルな発想です」畜産業の可能性についても中島さんは、こう続けた。「商品作りにおいて廃棄物や副産物について多くは語られませんが、最初からそこに目を向けて商品開発を行うことで価値もコスパも向上する可能性があります。いい循環をつないでいけば、どこをマネタイズしても構わない。お米が高ければ牧草地を水田に戻し、化学肥料が高ければ牛の糞を堆肥として活用する。畜産にはそういう柔軟性があるんです」[caption id="attachment_11587" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 牛舎横のスペースで堆肥を作っている。この堆肥に生ゴミや生分解性プラスチックを捨てると分解されていく〉[/caption]デザイン思考でチーズ作りに挑戦酪農家となって3年後の2012年、中島さんはチーズ作りに着手する。チーズを作った理由を尋ねると、「よく聞かれるんですけど実は覚えていなくて」と中島さん。「『チーズ作りたいよね〜』って家族で話して、翌日から作り始めるくらいの感じでしたね。うちの家族はものづくりへのハードルが低いので。ただ、取材で聞かれるので、後付けで理由を作りました。成功したひとって、実は事前に深く考えていないですよね。経営者は後付け能力が高いと思うんです(笑)」取材用に作った“後付けの理由”についても教えてくれた。「おばあちゃんはお味噌や発酵食品をつくっていて、母は牛乳を使った食品を作っていた。そしたら酪農家にとっての漬物って発酵食品のチーズだから、チーズを作りました」冗談めいてこう話す中島さんだが、さらに深く聞くと、彼の育った日常の中に、味覚を育む要素が豊富にあったと漏らす。例えば、祖母は漬物や味噌、あんこなどを自作し、しまいには加工所を立ち上げて商品販売も行っていた。凝り性の母は「これ食べてみて」と、試作したプリンを毎回勧めてきた。祖母や母の姿を見つつ料理のイロハを覚える一方で、市販のお菓子を食べては使われている材料を当てたり、帰宅時に夕飯のメニューを予測するゲームをひとりで楽しむという、謎の食オタク的な行動を取るようになっていた。[caption id="attachment_11589" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 今でも家に帰ると玄関に漂う料理の匂いで、「今日のごはんはあれかな?」と考えるという中島さん〉[/caption]「そもそも、ものづくりへのハードルが低い」という中島さん家族は、チーズ工房も自分たちで建てた。図面を引いてわずか3カ月ほどで完成させると、酪農業務の合間に週一回、中島さんと母のふたりで少量からチーズ作りを始めた。独学で学びつつも、なかなか自分たちの理想とするチーズは出来上がらない。そう悩みながら訪ねた先輩チーズ職人の言葉が、彼らの背中を押した。“どうせ納得できるものなんてできないから、早く商売を始めてお客さんに育ててもらわないと美味しくならない”2012年5月、近隣の道の駅への商品納入からスタート。「これでよしとは納得いかないながらも、食の安全性を保ちながらチーズの販売を始めました」と当時を振り返る。2025年現在では350軒ほどまでに増えた国産チーズの製造事業者も、当時は国内で100軒ほど。「日本でチーズ作れるんだ?」と珍しがられることもあり、評判は広がり売上も伸びていった。[caption id="attachment_11596" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 水田で育てる稲や麦が牛たちの飼料となる〉[/caption]一方で、酪農業界は衰退の一途をたどっていた。当時、中島さんは何を見据えていたのか。「嬉野に戻った2009年当時、佐賀県内に約120軒あった酪農家は、今では25軒ほどに。嬉野市に数軒あった酪農家も、今ではうち1軒だけです」と中島さんは振り返る。「この流れを自分ひとりで変えることはできない。だからこそ、自分にできることに集中しようと考えました」中島さんが見据えたのは、品質への一点集中だった。「実は、チーズ作りを始めた時点で、10年以内にコンテストでトップを取れると確信していました。コンテストでの受賞は、売上や事業を拡大することとは違い努力次第で狙えるものですから。その確信の裏側には、明確なロジックがある。「自分の能力を過信しているわけではありません。酪農をしながらチーズを作り、味の判断ができれば、品質は必ず向上していきます。今日できたものと次回のものを比較して、どちらが美味しいかを正確に見極める。『前のほうが良かった』と感じたら戻せばいい。そうやって積み重ねていけば、トップに到達できると信じていました。当時25歳でしたが、35歳までには結果を出そうと決めていたんです」当初は家族の何気ない会話から始まったチーズ作りだが、振り返るうちに中島さんならではの視点があったことも見えてきた。「多様な世代が重なるシーンをチーズで作りたいですね。チーズは、子どもからお年寄りまで、朝から夜まで、お酒の席でも楽しめる。どんなシーンにも溶け込める食材なんです」チーズ作りにおいても、建築家の視点から「シーンをデザインする」ことを考えていた中島さんだが、事業が拡大していくに連れて、新たな課題に直面する。[caption id="attachment_11643" align="alignnone" width="960"] 〈▲『MILK BREW COFFEE 塩田津本店』で提供されているホエイと地小麦の「シナモンロール」「MILK BREW COFFEE」「ソフトクリーム」〉[/caption][caption id="attachment_11593" align="alignnone" width="960"] 〈▲農家さんから仕入れたいちごで仕込んだシロップを使った「いちごみるく」と「MILK BREW COFFEE」。いちごみるくをいただくと、甘ったるくないみずみずしいいちごとフレッシュなミルクが爽やかな飲みごこち〉[/caption]問題解決から生まれたブラウンチーズ「チーズ作りでは、牛乳の約9割がホエイ(乳清)として分離され、実際にチーズとして残るのはわずか1割程度。チーズの製造量が増えるほど、廃棄するホエイも増えていく。乳搾りからチーズ作りまでを一気通貫で行う酪農家だからこそ、スタッフの労力を思うとやりきれなさを感じるんです」この問題を解決するために取り組んだのが、ホエイを活用したブラウンチーズの開発だった。ここから中島さんは、商品開発の際に副産物まで考慮する「デザイン経営」へと舵を切っていく。ヒントとなったのは、牛乳を煮詰めて作る日本最古の乳製品『蘇(そ)』と、ノルウェーの国民的チーズ『イエトオスト』。業界内でもブラウンチーズの存在は知られていたが、煮詰める工程に時間と労力がかかるため、商業的に採算が取りにくく、製品化されていなかった。「家庭用の鍋で作れたとしても製品化は難しいので、最初から自動で調理できる機材を探し、佐賀県の農業大学校の加工室にある窯を使わせていただいて試作を始めました」完成したブラウンチーズの販売価格は、当時の一般的なチーズ相場の倍以上にあたる100gあたり1400円に設定。「日本で最初に販売する者として、ブラウンチーズはホエイを使った商品として新しい文化になり得ると考えていました。だからこそ今後、商品化していくひとたちのことを考えて値付けを行うことが重要だと思ったんです。後は、経営視点で手土産として成立する“ちょうどいい価格”という点を考慮しました」この価格設定が先例となり、のちに他の生産者も同様の価格帯でブラウンチーズを商品化していくことになる。ブラウンチーズはただ食べるだけではなく、“素材”としての可能性もあると中島さんは語る。「バターは牛乳から脂肪分を取り出したもの。一方ブラウンチーズは牛乳から糖分を取り出したものです。乳糖は砂糖より穏やかな甘みで依存度も低い。料理に使える新しい“糖”のひとつとして、もっと広まっていってほしいですね」新しい挑戦に対する周囲のネガティブな声にも、中島さんは動じることはなかった。その強さの源には、日々向き合っている“命の現場”としての酪農のリアルがある。[caption id="attachment_11595" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 牛舎の近くの水田で育てられた稲や麦を食べる牛の糞尿は堆肥となり、牛のベッドや水田の肥料にもなる〉[/caption]命の現場に向き合う日々「これまで牛のことはあまり話してこなかったんですが」と中島さんは静かに語り始めた。「牛を飼っているということは、命の現場にいるということです。そこでは命が生まれ、家畜である以上、基本的には人間の都合で命を終わらせます。そういう立場で愚痴を言うのは違うと思っていました。言葉にしたら、牛に申し訳ない気がして」場合によっては、自らの手で死体を運ぶこともある。それは、一般には見えづらい酪農の現実だ。「そこには、圧倒的なリアルがあるんです」帰郷して1年ほどが経った頃、中島さんにも辛い時期が訪れた。原因不明のまま、子牛が次々に死んでいった。保健所で解剖を行ったが、結局原因はわからなかった。「当たり前といえば当たり前なんですが、そういう出来事が起きていても、社会は何事もなく回っている。夜になれば普通に飲み会があって、友人や仲間から誘われて酒を飲む。二次会でカラオケも歌います。牛が死んでしまったことへの悲しみや悔しさはあっても、周りに悟られないようにして、自分のなかだけに留めておくんです。人に話して楽になりたくない。それが僕なりの牛への約束なんです」日常的に命の最前線にいる中島さんは、こう考えている。「それを誰かに分かってほしいとは思わないし、『今日こんなことがあって…』なんて話すこともない。日常との落差を埋めるのは、自分でしかできないんです。だから、ひとが何を言っているかなんて気にしない。気にする必要のないことばかりです」その厳しい現実と向き合いながら、中島さんが何よりも大切にしているのは、“日々の平穏”だ。「設備が順調に回っていて、トラブルがない。それ以上は望んでいません。ふとしたときに、『最近、牛の事故や怪我がないな』と気づける。そんな瞬間が、一番の幸せですね」と穏やかに語る。[caption id="attachment_11599" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 牛舎の横に堆肥舎がある〉[/caption]地方から描く未来の風景 建築で学んだデザイン思考を武器に、酪農に新しい価値を見出してきた中島さん。嬉野市内の小学生以下の子どもたちに年一回、キッズミルクもしくはキッズソフトをプレゼントする「MOO MOO PICNIC」もその取り組みのひとつだ。グラフィックデザインを手がけるのは、資生堂でクリエイティブを担当していた小林一毅さん。インスタグラムでつながったことがきっかけだった。「デザインで大切にしているのは『生まれる気持ちよさ』です。MILK BREWのテーマカラーである水色、オレンジ、ピンクの3色は『この町にない色』を選びました。このデザインを持って町を歩くと、町自体が素敵に見える。真っ白い牛乳や白いソフトクリームも、見慣れた風景に新しい彩りを与える。シーンそのものをデザインしているんです」「メッセージとして何かを語るつもりはありません」と中島さんは言う。「僕たちは酪農家だけど、こういうデザインの店を持っている。その現実を見てもらうことが、何よりのメッセージになると思っています。言葉ではなく、実際の風景を見せることで『自分もやってみよう』と思う人が増えていくと嬉しいです。酪農という365日休みのない仕事をしながら、店をつくり、展開する。そうやって実現できたら、『忙しくてチャレンジできない』という言い訳は通用しなくなるでしょう」さらに中島さんは、挑戦の意義をこう例える。「陸上の桐生選手が100メートルで日本人初の9秒台を出したことで、今の若い選手たちは『日本人でも出せる』という前提で挑戦できますよね。僕も、地方の酪農家でも新しい可能性を切り拓けると証明したい。後に続く世代の“当たり前”をつくりたいんです」[caption id="attachment_11580" align="alignnone" width="960"] 〈▲ 東京や全国各地へ「MILK BREW COFFEE」のポップアップを積極的に展開している〉[/caption]中島さんの循環型農業と6次産業化の取り組みは、2024年に農林水産大臣賞を受賞。チーズ製造からカフェ運営までを一貫して行う酪農のモデルケースとして全国から注目され、多くの農家が視察に訪れている。2025年4月時点のナカシマファームの売上構成は、牛乳卸、チーズ事業、カフェ事業がそれぞれ1:1:1の割合を占めている。しかし、使用する牛乳の量を見ると、チーズは全体の10%、カフェ事業に至ってはわずか1%。残りは牛乳卸に回されている。つまり、牛乳全体の1%しか使っていないカフェ事業が、売上の3分の1を生み出しているのだ。ここにも、6次産業化の収益性の高さが表れている。[caption id="attachment_11597" align="alignnone" width="960"] 〈▲嬉野温泉駅前の「UPLIFT SHIMOJYUKU」。期間限定で牧場でよく見かける白い物体、「牧場のアレ」が置かれていた〉[/caption][caption id="attachment_11594" align="alignnone" width="960"] 〈▲嬉野温泉駅前の「UPLIFT SHIMOJYUKU」。広い空間にゆったりとした時間が流れている〉[/caption]「僕たち」と語る中島さんのもとには、事業の拡大に伴い、2024年11月時点で21名の仲間が集い、家族経営からチーム経営への移行も進んでいる。日々の挑戦が形になりつつある今、38歳になった中島さんが見据える次のゴールとは何か。「『牛乳』『酪農』『牛』と聞いたときに、幸せや愛情を自然と感じられる世界を作りたいんです。たとえばスターバックスの『コーヒー』といえば、おしゃれとか癒しといったイメージがすぐに思い浮かぶ。でも『牛乳』には、まだそこまでの感情的な価値が宿っていない。だからこそ、僕たちは牛乳に“感情価値”を宿すトップランナーになりたい」さらに、「水田酪農3.0」と呼ぶ構想についてもこう語る。 「1.0は米を取ったあとの稲藁を牛に食べさせる、2.0は今うちがやっているように、水田の資源を牛に与える。3.0では、牛が実際に水田にいる風景をつくりたい。通勤途中に田んぼで牛が草を食んでいる姿を見れば、それだけでストレスが和らぐ——そんな景色を描いています」最終的には、まちづくりを構想するディベロッパーが「この地域に“装置”としてカフェを置きたい」と考えたとき、スターバックスやブルーボトルと並んで『MILK BREW』の名が挙がることが目標だという。「そのために一番大事なのは、水田で稲や麦を育て、それを牛に食べさせ、出てきた糞や尿を堆肥として田んぼに返すという循環の仕組みです。この循環があれば、最終成果物は何でもいい。僕は『ブランディング』という言葉を使わなくても、自然とブランディングされていくと考えています」そう語る中島さんが最近、カフェで目にした光景がある。「この堆肥、どうしたらいい?」スタッフ同士の何気ない会話。その目線の先には生ゴミがあった。いつの間にか彼らは、「生ゴミ」を「堆肥」と呼んでいたのだ。「デジタルネイティブという言葉があるように、『サステナブルネイティブ』の世代が生まれていくのかもしれません」より面白く、より広がりのある豊かな風景を求めて——。この町で生まれ育った中島さんが描く未来の風景は、やがて誰かの“当たり前”になっていく。]]></description>
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