島原でしか味わえない食を求めて
「都会でしか食べられないグルメ」や「都心でしか買えないスイーツ」を求めて大都会へ人が集まってくるのは、今も昔も変わらない。その一方で、「その土地でしか味わえない食」を求めてローカルへと向かう人が、今、増えているらしい。
長崎県島原市の海沿いにある小さなレストラン「pesceco(ペシコ)」も、近年、遠くからでもわざわざ訪れたい店として高い評価を得ているガストロノミーレストランだ。

〈目の前に有明海を望むpesceco。後ろには雲仙普賢岳が見える〉
2019年にはミシュランで一つ星を獲得。新時代の料理人コンペティション「RED U-35」(同年)ではGOLD EGGを受賞するなど、島原の土地と文化を表現した独創的な料理は、国内外の美食家たちの舌を唸らせている。
腕を振るうのは、若きオーナーシェフの井上稔浩氏。「自然と文化の共存」をテーマに掲げ、島原の地を皿の上で表現している。今でこそ予約がとれない店として成長を遂げたが、ここに辿り着くまでは様々な紆余曲折があったという。そんな井上シェフの話から浮かび上がってきたのは、たんなる「地産地消」という言葉にとどまらない、普遍的でありながらも新しい郷土料理のあり方だ。
井上稔浩
いのうえ・たかひろ。1986年、長崎県島原市生まれ。鮮魚店を営む父親の元に育ち、幼少期から魚市場に通う環境で育つ。高校卒業後、「大阪あべの 辻調理師専門学校」に入学し、料理の基礎を学ぶ。地元に戻り「お食事処いのうえ」を父子で開店。2014年に独立し「pesceco」をオープン。地場食材を活かした「里浜ガストロノミー」を打ち出し、「ミシュランガイド長崎2019」で一つ星を獲得。
釣った魚をさばいていた中学時代

〈食事をしながら、遠く有明海の風景を見渡すことができるパノラマ型の窓が印象的なpesceco店内〉
「浜辺の散歩」
「波紋のように」
「菜園のなかで」
まるで詩の一節を読んでいるかのような料理名と、目の前に広がる有明海の風景に目を奪われるのは、長崎県島原市にある魚介レストランの名店pesceco。目の前でひと皿ずつ丁寧にサーブしながら、料理のコンセプトに始まり、素材とそれを育てる生産者について語るのは、オーナーシェフの井上氏だ。
地元のスーパーマーケットを営む両親の元で育ち、pescecoのある海岸沿いが遊び場だったという生粋の島原っ子。父親はそのスーパーで鮮魚部門を担当する、地元でも目利きの“魚屋さん”だ。物心ついた頃から父親について朝の魚市場へと足を運び、「いつも海のものに囲まれていた」幼少期だった。
「包丁が握れれば食いっぱぐれることはないけん」と祖母からも言い聞かされ、中学に入った頃には自分で釣った魚をさばいて調理するまでになっていたという。
2000年代当初、大型資本の波が地方へと押し寄せ、郊外型のショッピングモールやショッピングセンターが次々と開業。一方で、その地に長く根付いてきたはずの小売店はあっという間に姿を消していく時代だった。
両親が営んでいたスーパーマーケットも、フランチャイズという形で経営。働きづくめの両親の背中を見て育った井上シェフにとって、「スーパー経営は大変な仕事」とマイナスのイメージばかりが膨らんでいった。
一方、「いつかは鮮魚店を営む父の魚を調理したい」という子どもの頃からの思いを胸に漠然と料理への道を志し、高校卒業後には「一度は島原の外へ」と、大阪の調理師専門学校へと進学した。大阪随一の歓楽街である難波で、風呂・トイレ共同の5畳一間を借り、銭湯通いの毎日。
立派な料理人になりたいという意気込みは、都会の持つ魔力にあっという間に呑まれ、「気づいたら学校にはろくに行かず、バイト代を服につぎ込んで毎日ふらふら遊んでばかり。先生からも『井上、お前はこの業界では絶対にやっていけん』と言われていました」と、苦笑しながら当時を振り返る。
1年後、専門学校を卒業して大阪市内の老舗寿司屋へ就職するも1ヶ月で退職。居酒屋やカフェでアルバイトを続けながら、お金が貯まったら航空券を手にして日本を飛び出し、アジア各国を旅して回った。
「今思い返せば、当時は”自分のやりたいことって何だろう?”って考えている自分に酔ってたんでしょうね。ありがちですけど、『自分探しの旅』と名づけて、バックパック背負って放浪していました」
働けど働けど支払いに追われる毎日
ひとつの転機が訪れたのは、4年後。地元を離れたまま好き勝手に生きる息子を見かねた父親から、自身が経営しているスーパーマーケットの裏に新しく居酒屋を開店するから手伝ってくれ、と声がかかったのだ。
「特に目的もなくふらふらと生きていて。その頃の自分は、アフロヘアに革ジャンにブーツカットという出立ちでした。だから地元に久々に帰って来たときは『この不良もんが!』みたいなことを言われましたね。そりゃ、そう言われるよなぁとは思いますけど(笑)」
地元に“自分の城”を用意されての帰還。モラトリアム期間の終え方としては最高だろう。
「お食事処いのうえ」と看板を掲げた店では、父が厳選し丁寧に捌いた魚を使って、ジャンルレスのアラカルト料理としてカジュアルなスタイルで提供。目新しさもあって瞬く間に評判となり、順風満帆ともいえる船出だった。
店を回しながら、日々高まっていく料理への情熱。有名ブランド食材や地元では手に入らない高級食材を取り寄せ、「この地域にないものを新しい価値として提供したい」と、料理本を貪るように買い漁っては新しいレシピの開発に力を注いだ。
しかし高すぎる熱量は、経営者としての舵取りを危うくもさせていく。コストを度外視した料理やサービス。それに加えてスーパーの展開事業もうまくいかず、増えていく借金に焦りが募り、家族の笑顔も次第に消えていった。
「当時は、結婚して子どもも産まれたばかりでした。でも僕は、料理や店のことばかり考えて、家にも帰らず厨房にこもる毎日。両親が経営するスーパーも落ち目だったから、働いても働いても店の売り上げはスーパーの支払いに消えてしまう。じいちゃんもばあちゃんも働きづくめで、それこそ妻は、赤ちゃんおんぶしながらレジ打ち。借金返済の目処も先が見えなくなって、みんな限界ギリギリでした。家族にここまで迷惑かけて俺は何がしたいんだ? 何を変えればいんだろう? そう思い悩む日々でした」
独立へと導いた2つの出会い
店がどんなに賑わっても、生活が苦しいまま。完全に歪んでしまった「構造」から抜け出したいとは思っても、「何から変えればいいのか、まったくわからなかった」と井上シェフは話す。
そんな中、地元で暮らす生産者たちとの出会いが、料理人としての意識を変え、店の経営者として活路を見出すことにもつながっていった。
「南島原でトマトを育てている農家さんとの出会いは、僕にとって大きな財産になりました。地元にこんな美味しいトマトがあるのかという驚き。その農家さんとの出会いがきっかけで食材への意識が変わり、色んな農家さんとの出会いに広がっていきました。“美味しい”の理由を知るために畑に通うようになり、そのうちに、その土地だからこその作物があって、命の時間、役割に気づいたんです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、僕は”自然の摂理”を畑から学びました」
「それまでは『トマトソースを作りたいからトマトを仕入れる』という意識だったんです。つまり料理があり、そのための食材探し、という順番。だけど、その農家さんが作るトマトがあまりにも素晴らしいので、このトマトを生かした料理を作りたいと、食材そのものに目を向けるようになっていったんです。
でもこれまでと同じレシピでは食材の良さが生かしきれないわけです。どうしたら素材を生かした最高の料理になるのか。あの頃、一気に自分の思考が深化していった時期でしたね」
決定的な転機となったのは、2012年。料理人としての方向性を模索する手がかりを求めて、宮城県仙台市の郊外にある創作イタリア料理店「AL FIORE(アルフィオーレ)」(2015年に閉店)を夫婦で訪ねた時のこと。
AL FIOREは、その土地の持つ力を最大限に引き出した「一期一会の料理」で、全国から訪れる美食家たちを魅了する名店として、その名を知られる存在だった。
「オーナーシェフの目黒浩敬さん自ら駅まで迎えに来てくれて、ご自身の畑やお付き合いのある魚屋さん、ジビエハンターの方々を紹介しながら、まちをアテンドしてくださった。そして最後に、彼の店で食事をしたんです。『ああ、この料理は、目黒さんだからこそ生まれたんだ』と、彼の料理人としてのあり方を感じました。同時に、自分の目指す料理人像がはっきりみえた瞬間でした」
これを機に、自身の店のメニューを一新。「田舎では味わえない料理」から「田舎でしか味わえない料理」への創作が始まった。
「『田舎でしか味わえない料理』ってなんだろう、とここでも考えるわけです。実をいうと、自分が良いと思う食材はこの地域にはそんなに多くありませんでした。素敵だなと思う食材に限って、需要がなかったり、なくなってしまっていたり。昔ながらの良いものはほとんどが手仕事で、時間もかかるし量も作れません。現代産業的ではないので続かない。地域の人たちからも、求められなくなっていました。
だけど素晴らしいものづくりなんですよね。そんな生産者の方々と繋がり、料理を通してその素晴らしい食材を知ってもらいたい。この思いこそが、僕が目指す『田舎でしか味わえない料理』になっていったんですね」
一方、この20年で島原地域にも大手資本のチェーン店やスーパーが進出し、ある意味で地域の人々は「安さ」と「便利さ」といったパンくずのような幸せを享受した。しかしながら、その代償としてスーパーや飲食店をはじめとする産業は画一化し、地域の独自性は乏しく、「手仕事産業」がなくなり、じわじわと地域経済を疲弊させ活力を失わせていった。
「なんだかその状況が、僕にはとても不健全に思えてしまって。自分が料理人として何ができるのか。一つひとつの選択で未来が変わる。そう知ってもらうためにはどうすればいいのか。模索の日々でした」
地域で飲食店を営む一料理人として、その現実を変えたいという思いが募っていった井上シェフは、ついに完全に独立することを決意する。
「父もうすうす独立するんだろうなぁとは思っていたようです。お客さんを入れても入れても、父と自分のベクトルに違いがあり、持続的ではないと。スーパーマーケットも決して順調ではなかったんですけど、最後は父が『他人に迷惑をかけないなら独立してもいい』と、背中を押してくれました。幼い頃から家族のように共に過ごしてきた従業員のみんなも『スーパーは俺たちがなんとかするけん、稔浩は独立してしっかりやれよ』と応援してくれて。今でもその人たちのことは忘れられません。
こうして2014年10月、銀行からやっとの思いで借りた200万円を元手に、島原のまちの商店街のはずれに8坪の小さなレストランを夫婦でオープン。井上稔浩、28歳。pescecoが幕を開けた瞬間だった。
その土地ごとに “理にかなった食”がある
開店後、しばらくはその日暮らし。
「夫婦二人で切り盛りしているのに、1千円のパスタランチを食べに来るのは1日に1~2組。夜は居酒屋扱い。しかもハシゴで一杯だけ飲みに来るお客さんもいて、思い描いた理想とはほど遠く、とても厳しかったですね。食べていくのに必死でした。『いくらこだわりがあっても、お客さんが来てくれて、私たちの生活が成り立たないと意味がないんだよ』と、いつも妻に諭されていました。
その中でも、生きていくために変化する自分たちを支えてくれる地元のお客様もいて。移転を応援してくれた恩人との出会いもありました。自分たちの情熱をかってくれて。そうやって沢山のご縁に生かされてきた。その人たちの支えがあったからこそ、今のpescecoがあります。だからこそ感謝を形にしたいし、その気持ちが『この場所でやり続ける覚悟』につながっていますよね」
そんな井上シェフには、pescecoオープン当時から大切にしてきたことがある。料理を作って提供するだけではなく、その食材が生まれた背景や、“美味しい”の先にあるものを感じてほしいという思いだ。
「たとえば島原手延べそうめんのように、この地域の食材や料理にはしばしばごま油が使われているんですが、それってなぜかというと、当たり前なんですが、ごま油を作ってきた歴史があるわけですよね。さらに遡ると、この地にはごまを育てる文化と、和ろうそくをつくる産業の歴史があるわけです。和ろうそくはハゼの木を絞って作りますから、職人の家には圧搾機があった。そこから、ごまを絞って油を作る文化が生まれた。そもそもハゼ自体、雲仙普賢岳が噴火したときに、火山灰に強いという理由で土地の立て直しに一役かったという背景がある」
連綿と続く島原の風土、文化、人々の手から生まれたものが、島原のごま油であり、島原のそうめんだというわけだ。井上シェフはこうした食文化を「秩序の中から生まれた、理にかなった食」という表現を使って話しを続ける。
「今はいつでもどこでもあらゆる食材が手に入りますから、その土地にとって理にかなっていた食とは何かが見えづらくなってしまった。必要とされないからなくなるわけです。ですが、それぞれの土地に根付いた食が失われてしまうことには、とても寂しさを感じます。だからぼくは料理で必要とされるものとして、その土地の誇りを取り戻したいのです」
ローカルとは何なのか
2018年、オープンから4年を待たずして、pescecoは「旅をさせるレストラン」を目指して今の海岸通りに移転。メニューはコースのみに限定し、その日に限られた人数のゲストだけをもてなすレストランへと変化を遂げた。
「目新しさを求めて地元のお客さんが来てくれたのは、最初の数ヶ月だけ。需要がなく、ここでも試練がありました。生きていくためには全国の人たちを呼びこむしかない。まずは知ってもらわなければ。その思いでコンペティションにも挑戦しました。来て頂くために、本当に必死でしたね。
そんな中、やっとの思いで掴んだコンペティションへの決勝進出。自分をアピールする3分間のプレゼンテーションで、僕は”地方”や”ローカル”に対する強い思いをお話しました。すると、一人の審査員から『ローカルや地産を売りにするな』と言われたんです。『差別化や誇示は、時に人を傷つける。そんなことを売りにしなくても、君ならできるはずだ。もっと広い視野を持ちなさい』と。その時は衝撃的でしたが、考えるきっかけをいただきました。」
「現に、僕の目の前の海で獲れた魚は『島原産』と呼ばれていますが、この有明海という海は、長崎、佐賀、熊本、福岡に接しているわけです。いろいろな山や川の水を介した循環から生まれた海産物。そう考えると、『島原の』『地域の』『地産地消の』って何だろう?と。
僕が信頼している牡蠣の漁師さんからも、『海だけを見ていてもだめで、目の前の海を良くしたいならば源流、つまり山の水をまず見ないといけない』ということを教えていただきました。今、僕にとってのローカルとは、地域に限定することなのではなくて、もっと大きな視野で、この地にとって最良に理にかなったバランスを追い求めることなのかなと思っています」

〈絶大な信頼を寄せる天草の漁師・原田奨氏の牡蠣を、サッと湯通して、生ハムと昆布を出汁に取ったスープの中に。イタリア料理を原点とする井上シェフと目の前の有明海が見事に調和された一品〉
コロナ禍で客足が遠のくも踏み切った値上げ
ミシュランでの星獲得や、テレビで取り上げられたことなども重なり、静かだったレストランの電話がひっきりなしに鳴り続け、瞬く間に予約の取れない店となったpesceco。
しかし2020年春には、新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言の発令や外出自粛の要請があり、状況は一変。予約も白紙に戻り、図らずも飲食店としてこれからどうあるべきかという問いを再び突きつけられることになる。
「自分たちの仕事を、ここでもう一度立ち止まって考え直そうと。まず僕たちには家族がいて、子どもたちがいるわけですから、自分たちの生活を度外視にはできない。農家さんや漁師さんの生活もある。それに何より、来てくれたお客さんには最大限のエネルギーを注いだおもてなしをしたい。
となると、食材への妥協はもちろん、価格でサービスが差別化されるようなことはしたくない。そもそも魚をはじめとした食材の市場価格はその都度変動しますから、固定価格にしてしまうことでどこかに無理が生じるんですね」
結果、ディナーをなくして1日1営業限定にし、コース料理を1万6千円~1万8千円の変動性に設定。「変動性の価格に踏み切ることには勇気が要りましたが、それって自分たちだけじゃなくて、他の人たちにとっても無理のないこと。そういう飲食業界としての従来の仕組みも、変えていきたかった」と話す。
緊急事態宣言で客足が遠のいたにも関わらず踏み切った値上げ。再開当初は先が見通せず不安もあったというが、これ機に、pescecoとしてのスタイルは着実に確立されていく。
「1日1営業6名限定にしたことで、すべての時間、エネルギーを、そのゲストのために捧げることができるようになりました。するとこれまでにない満足度を、ゲストが得て帰っていくわけです。その姿を見た時に、自分たちが目指していることはこれだったんだなと改めて気付きました。ゲストも大切だし、農家さん、漁師さんも大切。そしてもちろん自分たちの生活も大切。それが全部揃ったんです」
ローカルガストロノミーは究極の郷土料理
こうして生まれた究極のローカルガストロノミー。「里浜ガストロノミー」と銘打たれたそのコース料理では、海、川、山が連なる島原の豊かな自然と、その自然に寄り添い暮らす人々から生まれる食の恵みが見事に昇華されている。源泉にあるのは、消えゆく郷土料理や、井上シェフ自身が幼い頃から親しんできた味の記憶。
たとえば、11皿~で構成されるコース料理の最初の一皿は、アミューズ「エタリの塩辛バターと薩摩芋のタルトレット」。エタリとは、島原の方言で片口イワシのこと。近年、原料や作り手の不足により食卓から姿を消しつつあったこのエタリの塩辛を、井上シェフは新しいかたちで考案。「浜辺の散歩」と名づけ、目の前の砂浜を閉じ込めた標本のような木箱の上に乗せてサーブしている。

〈大ぶりで脂の乗ったエタリは乾燥に時間がかかり煮干しに不向きだったため、島原地方では古くから発酵熟成させた塩辛として重宝してきた。子どもたちはおやつに、蒸した薩摩芋に乗せてその塩気と甘みを楽しんだという。そんな風景が浮かぶ一品〉
ごま油とエタリの魚醤で和えた牡蠣に、玉ねぎのピクルス、茹でた米をサラダとして合わせた「波紋のように」では、目の前の海で獲れた昆布を山からの湧水で煮出して泡立てたエスプーマが優しく包み込む。

〈高温多湿の時期、この地域では古くから食材を酢漬けにして保存食としてきた。赤玉ねぎのピクルスに使われる柿酢もまた、この土地に古くから伝わる発酵食品の一つ。「アイデア次第で100年前でもこの料理が作れます」と井上シェフ〉
目の前の風景と切り離すことのできないない井上シェフの料理は、「味わう」を超えて「経験する」ことで初めてそのフィロソフィーに到達することができる。
「これまで当たり前にあったもの、根付いてきたものというのは、もともとその土地で矛盾を抱えず、理にかなったものであることが多い。でもそれが今、消えつつあるんですね。必要とされてないからです。料理人は食を通して、その産物の価値を見出し、必要とされるべきものへと再提案することができるんじゃないでしょうか」
続けること、時間をかけること
2022年でオープンから8年。海岸通りに移転して4年が経つ今、失われつつあった地方の“個性”を再び取り戻すべく、新たな歩みを進めるpesceco。来る 6月には、レストランのそばに父親の魚屋を併設する予定だ。
「隣に魚屋をつくるのは父や地域のみなさんへ恩返ししたい気持ちがあるからなんです。僕がふらふらしていた時、父が場所ときっかけを作ってくれたからこそ、今の自分たちがある。そんな父と力をあわせて、安さや便利さに勝る魅力ある専門店をつくりあげていきたいんです。
また今のpescecoを建てるときに力を貸してくださった恩人、その他多くの方の支えがあってここまでやってこれました。そうしたみなさんに“還元”したいんです。
レストランはどうしても席数が限られていますから、行きたくとも機会はそう多くない。だけど『この魚屋にいけば、こんな美味しい地魚が手に入る』と、生活の中で感じてもらえるかもしれない。そうした場所は地域にとっても必要だし、僕らレストランはそうしたきっかけをつくるお手伝いをできるんじゃないかと思っています」
「旅をしてまでも行きたいレストランをつくること――地元に戻り、お店を始めた当初に思い描いた自分になれているし、ひとつの目標は達成できたと思っています。
そして今、自分たちのレストランを求めて来てくださるお客様に『はるばる来てよかった。また来たい』と思ってもらえるような料理をつくることを第一に考えています」
すでに、pescecoには多くのリピーター客がついている。代えがたい食体験を求めて、また訪れたい、pescecoの料理を味わいたいという人が多いのだ。
なお夫婦2人で、満足のいくおもてなしをするため用意できる席数は1日6席のみ。“たった6席”でも、営業後は疲労のため立てないこともあるほどだという。

〈「肉体的にも精神的にも、現在は1日6席が限界ですね」〉
「限られた席数ゆえお断りするお客様も多く、心苦しくもあるのですが、今はレストランを大きくすることは考えていません。求められたら、求められた分だけでなく、自分たちの“足るを知る”ことも大切です。
ディナーをやめてお昼の営業を中心としたのも、夜は子どもたちや家族と過ごしたいから。レストランの営業スタイルや役割はそれぞれあるべきですし、その時、その時代とともに変化していくことが大切だと思います。それでも求められるレストランであり続けていけるようにしたい」
3人の子どもを育てながら、夫婦で切り盛りする小さな海沿いのレストラン。店名の由来は、イタリア語で「魚」を意味する「ペッシェ(pesce)」と、妻である景子さんの「子(co)」から。井上シェフにいつも寄り添い支えてくれる妻と、手探りで料理の道を模索し続ける息子を見守る魚屋の父。そんな2人の存在を胸に、最後はこうも話してくれた。
1番大切なことは、この土地でやり続けることだと思います。自分たちやこのレストランの存在が、10年、20年と続けていけること。あと15年も経てば、3人の息子たちも自立しています。その時まで父としても料理人としても魅力的であり続けたいですし、願わくば息子たちとも一緒に、家族みんなでこの土地に必要とされ続けるレストランをやれたら幸せです」
撮影/繁延あづさ旅の目的地となったレストランpescecoと、井上稔浩シェフのガストロノミー哲学
取材後記
担当・堀尾真理
井上さんへのインタビューを通して、改めて“郷土料理”とか“伝承料理”というものに思いを馳せることが、なんとなく多くなりました。井上さんの料理を思い返すと、郷土料理とは伝統や古典そのままではなく、時代や作る人によって常に新しい息吹を吹き込まれて変化していくものなのだなあと思うのです。ネット、コンビニ、ファストフードのおかげで、今やどこにいても同じ料理が食べられる時代。そんな中にあっても、こうして土地ごとの“味”が変化を続けながら、しかも生き生きとあり続けることは、やっぱり人は、その土地から切り離されては生きていけないから。「ローカルガストロノミー」なんて言葉にすると小難しく聞こえてしまうけれど、1億6500万年(!)もの間、人はこうして、その土地で手に入るものを“理にかなった”仕方でいかに美味しく食べるか、という行為を繰り返してきたのかもしれないなあ…なんて、ちょっと大袈裟なことを考えています。
取材・文 堀尾真理